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斉(せい)・南北朝(なんほくちょう)第5代分裂期の王朝

明帝(めいてい)蕭(しょう)鸞(らん)

在位 494年12月5日〜498年9月1日(3年271日)

姓蕭(しょう)諱鸞(らん)字景栖(けいせい)幼名玄度(げんど)廟号高(こう)宗(そう)

明帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 494年12月5日〜498年9月1日
在位 3年271日長さは365名中205位
没年
498年9月1日47歳(数え年)267名中長寿順92位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
簒奪
先代
  • 廃帝斉・南北朝明帝は廃帝の同族(遠縁)
次代
  • 廃帝斉・南北朝廃帝は明帝の子

出典(死因・即位経路)

死因
南齊書/卷6(明帝紀)
即位経路
南齊書/卷5・卷6

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

鬱林王(うつりんおう)と海陵王(かいりょうおう)を続けて廃して自ら帝位に就き、高帝(こうてい)・武帝(ぶてい)の子らを殺し尽くした南斉(なんせい)の皇帝である。南斉書(なんせいしょ)の史臣(ししん)は、傍系(ぼうけい)から立って同族を殺したことで自らの枝を弱め、ついに国を覆したと評する。

即位まで

始安貞王(しあんていおう)蕭道生(しょうどうせい)の子で、幼くして父を失い、高帝(こうてい)に我が子以上に育てられた。武帝(ぶてい)の遺詔(いしょう)で尚書令(しょうしょれい)となり、鬱林王(うつりんおう)の代には大将軍(だいしょうぐん)に進んだ。鬱林王(うつりんおう)は何胤(いん)に命じて自分を殺させようとしたが、何胤(いん)が引き受けずに取りやめた。さらに西州(せいしゅう)へ出されそうになったため、蕭(しょう)鸞(らん)は廃立を決め、兵を宮中に入れさせて鬱林王(うつりんおう)を殺した。494年、代わりに海陵王(かいりょうおう)を立てて自らは録尚書事(ろくしょうしょじ)となり、政を一手に握った。海陵王(かいりょうおう)が蒸し魚を食べたいと言っても、録公(ろくこう)の命が無いとして与えられなかったという。同じ年のうちに太后の令で海陵王(かいりょうおう)を廃し、高帝(こうてい)の第三子として跡を継ぐ形をとって即位した。廃された海陵王(かいりょうおう)は、病と称して御医(ぎょい)をたびたび遣わされたのちに殺された。

治世と最期

海陵王(かいりょうおう)の代から即位後にかけて三度諸王(しょおう)を誅(ちゅう)し、そのたびにまず香を焚いて嗚咽(おえつ)したので、人々はその夜に殺戮(さつりく)があると知った。495年には北魏(ほくぎ)が四州(ししゅう)に攻め入り、498年の初めには沔北(べんぼく)の諸郡が相次いで落ちた。同じ年、王敬則(けいそく)が挙兵したが、翌月には斬られた。新林苑(しんりんえん)を廃して土地を民に返すなど倹約に努めた一方、猜疑心(さいぎしん)が強かった。498年、病が重くなって一度息が絶えてから蘇ると、高帝(こうてい)・武帝(ぶてい)の子孫が成長するのを忌んで残る十王を殺した。資治通鑑(しじつがん)は、これで太祖(たいそ)・世祖(せいそ)・世宗(せいそう)の子らが尽きたと記す。病を伏せて政務を続けたが、白魚を薬に求めたことで外に知られ、赤い衣を着て厄を払おうとしたものの、同じ年に正福殿(せいふくでん)で没した。南斉書(なんせいしょ)・南史(なんし)・資治通鑑(しじつがん)のいずれにも病名は無い。

在位中の出来事(7件)

改元494年12月5日元号を「建武」とする
大赦494年12月5日
大赦495年
大赦497年
大赦498年2月7日
被反乱498年5月〜498年6月王敬則の乱
改元498年5月9日元号を「永泰」とする

斉・南北朝の歴代皇帝

7名の一覧

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