宋・南北朝第6代分裂期の王朝
明帝劉彧
在位 466年1月9日〜472年5月10日(6年123日)
姓劉諱彧字休炳幼名栄期廟号太宗
明帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 宋書/卷08 本紀第八 明帝
- 即位経路
- 宋書/卷08 本紀第八 明帝
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
劉彧は劉宋の文帝の第十一子で、前廃帝が殺されたのちに位に即いた。即位直後に起こった晋安王劉子勛らの挙兵を鎮め、孝武帝の子らを次々に死なせて、472年に病で世を去った。
即位まで
劉彧は439年に生まれた。劉彧は腹心の阮佃夫と李道兒と密謀し、二人が寿寂之らと結んで前廃帝を殺した。宋書の本紀は劉彧自身が手を下したとは書かず、魏書は劉彧が前廃帝を殺して立ったと記す。劉彧は皇帝の位に即いて大赦し、泰始と改元した。
治世と最期
即位直後、江州刺史の晋安王劉子勛が鄧琬を謀主として兵を挙げ、尋陽で帝に立てられて四方が呼応した。466年、建安王劉休仁が反乱軍を大破し、劉子勛ら孝武帝の子たちは死を賜った。同じ年のうちに残る孝武帝の子たちにも死が賜られ、資治通鑑はこれで孝武帝の子が尽きたと書く。資治通鑑考異は、南史が孝武帝の子の一部を後廃帝が殺したとするのを、宋書と照らして誤りとする。471年には、反乱の平定に功のあった劉休仁も死んだ。宋書の本紀は罪ありとして自殺したと書くが、劉休仁伝は、病の重い明帝が身後を案じて夜に薬を届けて死なせたと書く。472年、明帝は袁粲や褚淵らに後事を託して崩じた。本紀は、讒言する者を近づけて皇族の枝を刈り落とし、宋の業はこれより衰えたと結んでいる。
在位中の出来事(16件)
被反乱466年1月〜466年12月義嘉の乱(劉子勛の対立政権蜂起)
改元466年1月9日元号を「泰始」とする
大赦466年1月9日
立后466年1月21日
被反乱466年2月永世県の史逸宗の反乱
被反乱467年薛安都の子・薛伯令による雍州四郡占拠
被反乱468年広州における祅賊(妖賊)の蜂起・刺史殺害
被反乱468年交州における李長仁の割拠・自立
被反乱471年合肥における妖寇宋逸の乱
改元472年1月26日元号を「泰豫」とする
残り6件を表示
大赦日付不詳
大赦日付不詳
大赦日付不詳
大赦日付不詳
大赦日付不詳
大赦日付不詳