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宋(そう)・南北朝(なんほくちょう)第8代分裂期の王朝

順帝(じゅんてい)劉(りゅう)準(じゅん)

在位 477年8月5日〜479年5月27日(1年295日)

姓劉(りゅう)諱準(じゅん)字仲謀(ちゅうぼう)幼名智観(ちかん)

順帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 477年8月5日〜479年5月27日
在位 1年295日長さは365名中268位
没年
479年6月23日13歳(数え年)267名中長寿順258位
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
擁立
先代
  • 後廃帝宋・南北朝順帝は後廃帝の弟
次代
  • 高帝斉・南北朝高帝と順帝に血縁はない

出典(死因・即位経路)

死因
資治通鑑/卷135;宋書/卷10 本紀第十 順帝
即位経路
宋書/卷10 本紀第十 順帝

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

蕭道成(しょうどうせい)に擁立されて2年ほど位にあり、斉に禅譲(ぜんじょう)したのち間もなく殺された劉宋(りゅうそう)の最後の皇帝である。

即位まで

宋書(そうじょ)の本紀(ほんぎ)は明帝(めいてい)の第三子とする。同じ宋書(そうじょ)の后妃伝(こうひでん)は、病で子をもうけられなくなった明帝(めいてい)が、弟たちの姫妾(きしょう)が身ごもると宮中に入れ、生まれた男子を寵愛(ちょうあい)する妃に育てさせたと書き、順帝(じゅんてい)は桂陽王(けいようおう)劉休範(りゅうきゅうはん)の子だと明記する。宋書(そうじょ)の明帝(めいてい)諸子伝(しょしでん)は陳昭華(しょうか)が生んだとし、宋書(そうじょ)の中でも書き方が分かれており、資治通鑑(しじつがん)は本文で休範(きゅうはん)の子だと書き添える。477年、後廃帝(こうはいてい)が殺されると朝堂に迎えられて即位した。

治世と最期

即位の直後から蕭道成(しょうどうせい)が東府城(とうふじょう)に入って政治を握った。その年の暮れには荊州(けいしゅう)刺史(しし)の沈攸之(ゆうし)が兵を挙げ、司徒(しと)の袁(えん)粲(さん)も石頭城(せきとうじょう)に拠って蕭道成(しょうどうせい)に背いたが、袁(えん)粲(さん)は城内で斬られた。479年に斉へ位を譲り、丹陽宮(たんようきゅう)に移されて汝陰王(じょいんおう)とされた。南史(なんし)によれば、禅位(ぜんい)の日に順帝(じゅんてい)は仏堂の天蓋の下に隠れ、太后が自ら探し出した。資治通鑑(しじつがん)は、順帝(じゅんてい)が殺されるのかと問い、二度と帝王の家には生まれたくないと泣いたと記す。宋書(そうじょ)は丹陽宮(たんようきゅう)で亡くなったとだけ書き、南斉書(なんせいしょ)も亡くなったことしか記さない。南史(なんし)は、外で馬を走らせる者があって順帝(じゅんてい)が乱を恐れるなか、見張りが順帝(じゅんてい)を殺し、病死と届けて斉から賞を受けたと書く。資治通鑑(しじつがん)はさらに、番兵(ばんぺい)が門から押し入ったこと、斉の高帝(こうてい)が罪に問わず賞を与えたことを記す。このサイトの死因が暗殺となっているのは、この記述による。

在位中の出来事(7件)

改元477年8月元号を「升明」とする
大赦477年8月升明元年、改元と同時に大赦天下、文武に位二等を賜う。
被反乱477年12月〜478年3月沈攸之の乱
大赦478年沈攸之の反乱鎮圧(石頭城の袁粲らの乱平定)後、甲戌の日に大赦天下。
立后478年升明二年冬十月壬寅、皇后謝氏を立てる。
被反乱478年袁粲・劉秉らの石頭反乱
被反乱478年呉郡太守劉遐の反乱

宋・南北朝の歴代皇帝

10名の一覧

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