宋・南北朝第8代分裂期の王朝
順帝劉準
在位 477年8月5日〜479年5月27日(1年295日)
姓劉諱準字仲謀幼名智観
順帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 資治通鑑/卷135;宋書/卷10 本紀第十 順帝
- 即位経路
- 宋書/卷10 本紀第十 順帝
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
蕭道成に擁立されて2年ほど位にあり、斉に禅譲したのち間もなく殺された劉宋の最後の皇帝である。
即位まで
宋書の本紀は明帝の第三子とする。同じ宋書の后妃伝は、病で子をもうけられなくなった明帝が、弟たちの姫妾が身ごもると宮中に入れ、生まれた男子を寵愛する妃に育てさせたと書き、順帝は桂陽王劉休範の子だと明記する。宋書の明帝諸子伝は陳昭華が生んだとし、宋書の中でも書き方が分かれており、資治通鑑は本文で休範の子だと書き添える。477年、後廃帝が殺されると朝堂に迎えられて即位した。
治世と最期
即位の直後から蕭道成が東府城に入って政治を握った。その年の暮れには荊州刺史の沈攸之が兵を挙げ、司徒の袁粲も石頭城に拠って蕭道成に背いたが、袁粲は城内で斬られた。479年に斉へ位を譲り、丹陽宮に移されて汝陰王とされた。南史によれば、禅位の日に順帝は仏堂の天蓋の下に隠れ、太后が自ら探し出した。資治通鑑は、順帝が殺されるのかと問い、二度と帝王の家には生まれたくないと泣いたと記す。宋書は丹陽宮で亡くなったとだけ書き、南斉書も亡くなったことしか記さない。南史は、外で馬を走らせる者があって順帝が乱を恐れるなか、見張りが順帝を殺し、病死と届けて斉から賞を受けたと書く。資治通鑑はさらに、番兵が門から押し入ったこと、斉の高帝が罪に問わず賞を与えたことを記す。このサイトの死因が暗殺となっているのは、この記述による。
在位中の出来事(7件)
改元477年8月元号を「升明」とする
大赦477年8月升明元年、改元と同時に大赦天下、文武に位二等を賜う。
被反乱477年12月〜478年3月沈攸之の乱
大赦478年沈攸之の反乱鎮圧(石頭城の袁粲らの乱平定)後、甲戌の日に大赦天下。
立后478年升明二年冬十月壬寅、皇后謝氏を立てる。
被反乱478年袁粲・劉秉らの石頭反乱
被反乱478年呉郡太守劉遐の反乱