宋・南北朝分裂期の王朝対立・僭称の皇帝
元凶劭劉劭
在位 453年3月16日〜453年5月27日(72日)
元凶劭の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 宋書/卷99 列伝第59 二凶
- 即位経路
- 宋書/卷99 列伝第59 二凶(劉劭)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
劉宋の文帝の長子で皇太子だったが、廃されることを知って父を殺して帝位に就き、わずかな日数で弟の孝武帝らの軍に敗れて斬られた人物である。
即位まで
文帝の即位後、喪中に生まれたため誕生が伏せられ、宋書の二凶伝によれば426年になって生まれたと公表された。429年、6歳で皇太子に立てられた。450年に文帝が北伐を図ると強く諫め、451年の初めに魏軍が瓜歩に迫ると江湛と徐湛之を斬るよう求めたが、文帝は北伐は自分の意思だと答えた。劉劭は女巫の厳道育を信じ、弟の始興王劉濬とともに、文帝を象った玉の人形を含章殿の前に埋めて呪った。452年にこれが文帝に知られ、呪詛の書数百枚と埋められた人形が見つかった。453年、劉濬が厳道育をなお匿っていたと知った文帝は劉劭を廃し、劉濬に死を賜ろうとした。文帝がこれを潘淑妃に語ると、潘淑妃から劉濬へ、劉濬から劉劭へと伝わり、劉劭は謀反を決めた。同じ年、偽の詔で兵を集め、東宮の兵を率いて宮中に入り、張超之が文帝を殺した。宋書の二凶伝は偽詔をある日の夜とするが、同じ伝の末尾は変事をその日の朝に置き、資治通鑑考異は一日前の夜を採る。劉劭は徐湛之と江湛に弑逆の罪を着せて大赦し、太初と改元して、集まった数十人の百官の前で慌ただしく即位した。文帝は劉劭のもとで中宗景皇帝と諡された。
治世と最期
同じ年、自ら軍を率いて新亭の柳元景の塁を攻めたが敗れた。台城が破られると、西の垣を穿って武庫の井戸に隠れたが、隊副の高禽に捕らえられた。先に4人の子を殺されたのち、牙門の下で斬られ、宗室がここに至るとは思わなかったと嘆いた。南史はこの言葉の宗室を宋室と書く。首は大航にさらされ、妻の殷氏も死を賜った。斬られた日を資治通鑑と南史は丙子とし、宋書の孝武帝紀は丙申と書く。魏書の世祖紀は、弟の劉駿が劉劭を殺して自立したと記す。