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宋(そう)・南北朝(なんほくちょう)分裂期の王朝対立・僭称の皇帝

元(げん)凶劭(きょうしょう)劉劭(りゅうしょう)

在位 453年3月16日〜453年5月27日(72日)

姓劉(りゅう)諱劭(しょう)字休遠(きゅうえん)

元凶劭の人物データ

生年
424年
在位
  • 453年3月16日〜453年5月27日
在位 72日30歳で即位(数え年)・長さは365名中343位
没年
453年5月27日30歳(数え年)267名中長寿順187位タイ
死因
処刑非業の死・365名中34名
即位経路
簒奪対立・僭称の皇帝
先代
  • 文帝宋・南北朝元凶劭は文帝の子
次代
  • 孝武帝宋・南北朝孝武帝は元凶劭の弟

出典(死因・即位経路)

死因
宋書/卷99 列伝第59 二凶
即位経路
宋書/卷99 列伝第59 二凶(劉劭)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

劉宋(りゅうそう)の文帝(ぶんてい)の長子で皇太子だったが、廃されることを知って父を殺して帝位に就き、わずかな日数で弟の孝武帝(こうぶてい)らの軍に敗れて斬られた人物である。

即位まで

文帝(ぶんてい)の即位後、喪中に生まれたため誕生が伏せられ、宋書(そうじょ)の二凶(にきょう)伝によれば426年になって生まれたと公表された。429年、6歳で皇太子に立てられた。450年に文帝(ぶんてい)が北伐(ほくばつ)を図ると強く諫(いさ)め、451年の初めに魏(ぎ)軍が瓜歩(かほ)に迫ると江湛(たん)と徐湛之(たんし)を斬るよう求めたが、文帝(ぶんてい)は北伐(ほくばつ)は自分の意思だと答えた。劉劭(りゅうしょう)は女巫(じょふ)の厳道育(どういく)を信じ、弟の始興王(しこうおう)劉(りゅう)濬(しゅん)とともに、文帝(ぶんてい)を象った玉の人形を含章殿(がんしょうでん)の前に埋めて呪った。452年にこれが文帝(ぶんてい)に知られ、呪詛(じゅそ)の書数百枚と埋められた人形が見つかった。453年、劉(りゅう)濬(しゅん)が厳道育(どういく)をなお匿っていたと知った文帝(ぶんてい)は劉劭(りゅうしょう)を廃し、劉(りゅう)濬(しゅん)に死を賜ろうとした。文帝(ぶんてい)がこれを潘(はん)淑妃(しゅくひ)に語ると、潘(はん)淑妃(しゅくひ)から劉(りゅう)濬(しゅん)へ、劉(りゅう)濬(しゅん)から劉劭(りゅうしょう)へと伝わり、劉劭(りゅうしょう)は謀反を決めた。同じ年、偽の詔で兵を集め、東宮(とうぐう)の兵を率いて宮中に入り、張超之(ちょうし)が文帝(ぶんてい)を殺した。宋書(そうじょ)の二凶(にきょう)伝は偽詔(ぎしょう)をある日の夜とするが、同じ伝の末尾は変事をその日の朝に置き、資治通鑑(しじつがん)考異(こうい)は一日前の夜を採る。劉劭(りゅうしょう)は徐湛之(たんし)と江湛(たん)に弑逆(しいぎゃく)の罪を着せて大赦し、太初(たいしょ)と改元(かいげん)して、集まった数十人の百官の前で慌ただしく即位した。文帝(ぶんてい)は劉劭(りゅうしょう)のもとで中宗(ちゅうそう)景皇帝(けいこうてい)と諡(おくりな)された。

治世と最期

同じ年、自ら軍を率いて新亭(しんてい)の柳元景(げんけい)の塁を攻めたが敗れた。台城(たいじょう)が破られると、西の垣を穿(うが)って武庫(ぶこ)の井戸に隠れたが、隊副(たいふく)の高禽(きん)に捕らえられた。先に4人の子を殺されたのち、牙門(がもん)の下で斬られ、宗室(そうしつ)がここに至るとは思わなかったと嘆いた。南史(なんし)はこの言葉の宗室(そうしつ)を宋室(そうしつ)と書く。首は大航(だいこう)にさらされ、妻の殷氏(いんし)も死を賜った。斬られた日を資治通鑑(しじつがん)と南史(なんし)は丙子(へいし)とし、宋書(そうじょ)の孝武帝(こうぶてい)紀(き)は丙申(へいしん)と書く。魏書(ぎしょ)の世祖(せいそ)紀(き)は、弟の劉(りゅう)駿(しゅん)が劉劭(りゅうしょう)を殺して自立したと記す。

在位中の出来事(6件)

改元453年3月16日元号を「太初」とする
大赦453年3月16日
親征453年3月16日〜453年5月15日父・文帝(弑殺・帝位簒奪)、および帝位保持のための軍事行動(新亭の戦いで柳元景軍を攻撃)
被反乱453年3月16日〜453年5月27日劉駿(孝武帝)らによる討伐・新亭の戦い〜建康陥落
大赦453年3月23日
立后453年5月妻の殷氏を皇后に立てる。

宋・南北朝の歴代皇帝

10名の一覧

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