東晋第4代分裂期の王朝
康帝司馬岳
在位 342年7月27日〜344年11月17日(2年114日)
姓司馬諱岳字世同
康帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書 帝紀第七 康帝/晉書 卷七十七 列傳第四十七 何充傳
- 即位経路
- 晉書 帝紀第七 康帝
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
兄の成帝に子がありながら、外戚の庾冰の進言で後継とされた東晋の皇帝である。
即位まで
成帝の同母弟で、326年に呉王、327年に琅邪王となった。成帝が病むと、外戚として権勢の大きい中書令の庾冰は、代替わり後に一族が疎まれるのを恐れ、強敵があるので年長の君を立てるべきだと説いた。何充は父子で伝えるのが先王の旧典だと反対したが、庾冰は聞かなかった。成帝の二人の子はまだ襁褓の中にあり、成帝は庾冰の請いを容れて病床で詔を下し、弟の琅邪王を後継とした。342年に成帝が没すると、その翌日に即位した。
治世と最期
即位後は成帝の二人の子を王に封じ、自らは喪に服して政を庾冰と何充に任せた。自分が大業を継げたのは二人の力だと言うと、何充は庾冰の力であって、自分の議に従っていれば陛下の世は無かったと答え、帝は恥じ入った。343年の初めに褚氏を皇后に立て、建元と改元した。同じ年、後趙からの降将を受けて中原経略を議し、桓温を臨淮に入れ、庾翼を襄陽に移した。庾冰は自ら外に出ることを求めて江州刺史となり、何充が輔政した。資治通鑑によれば、病が重くなると庾冰・庾翼は会稽王を立てようとしたが、何充の建議に従って皇子の聃を皇太子とした。344年、その2日後に式乾殿で没した。
在位中の出来事(4件)
大赦342年7月27日咸康八年六月甲午、即皇帝位、大赦(即位に伴う大赦)。
改元343年元号を「建元」とする
大赦343年建元元年十一月己巳、大赦。
立后343年咸康八年十二月壬子、立皇后褚氏。