東晋第7代分裂期の王朝
廃帝司馬奕
在位 365年3月31日〜372年1月6日(6年282日)
廃帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書 帝紀第八 廢帝海西公/晉書 卷三十二 列傳第二 后妃下
- 即位経路
- 晉書 帝紀第八 廢帝海西公
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
東晋の皇帝で、権臣の桓温に不能を言い立てられて廃され、海西公として呉で余生を送った。
即位まで
哀帝の同母弟で、342年に東海王に封じられた。晋書の后妃伝によれば、母の周氏は成帝の宮で寵愛されて哀帝と司馬奕を生んだので、司馬奕は成帝の子にあたる。365年、哀帝が後嗣なく崩じると、翌日の皇太后の詔で大統を継ぐことになり、百官が邸に迎えてその日のうちに即位した。
治世と最期
晋書の本紀は、桓温が枋頭の敗戦で威名を挫かれたため、廃立で威権を伸ばそうとし、慎み深い帝には閨房のことが誣いやすいと見たと記す。郗超伝は、廃立は郗超が桓温に説いたことに始まるとする。桓温は、帝が藩王のころから痿疾を患い、田氏・孟氏が生んだ三人の男子は帝の子ではないと言い立て、資治通鑑によればこの話を民間にひそかに流した。本紀と資治通鑑はこれを桓温の作り話とするが、晋書の五行志は海西公の不能を事実として書く。資治通鑑によれば、廃位を請われた褚太后は奏を数行見て、もともとこれを疑っていたと言い、悲嘆の句を書き足した。372年、太后の令で東海王に落とされ、白い帽子と単衣で西堂を下り、牛車で神獣門を出ると、群臣は拝辞してすすり泣いた。数日後、その子らと母が殺され、殺された子を簡文帝紀は二人とし、資治通鑑は桓温が三人を殺したとする。まもなく海西県公に落とされて呉県へ移され、見張りを付けられた。その年の暮れ、盧悚の弟子の許龍が太后の密詔と称して復位に迎えに来たが、保母の諫めを容れてとどまり、太后の詔なら官属が来るはずだと許龍を縛らせようとした。その後は禍を恐れて酒色に耽り、子があっても育てずに天寿を保とうとし、朝廷はもはや警戒しなかった。386年に呉で薨じた。本紀と資治通鑑は死因を書かず、このサイトの死因が病死となっているのは、本紀の史臣が天寿を全うしたと評していることによる。