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東晋(とうしん)第7代分裂期の王朝

廃帝(はいてい)司馬(しば)奕(えき)

在位 365年3月31日〜372年1月6日(6年282日)

姓司馬(しば)諱奕(えき)字延齢(えんれい)別称海西公(かいせいこう)

廃帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 365年3月31日〜372年1月6日
在位 6年282日長さは365名中162位
没年
386年11月23日45歳(数え年)267名中長寿順105位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
擁立
先代
  • 哀帝東晋廃帝は哀帝の弟
次代

出典(死因・即位経路)

死因
晉書 帝紀第八 廢帝海西公/晉書 卷三十二 列傳第二 后妃下
即位経路
晉書 帝紀第八 廢帝海西公

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

東晋(とうしん)の皇帝で、権臣の桓温(かんおん)に不能を言い立てられて廃され、海西公(かいせいこう)として呉で余生を送った。

即位まで

哀帝(あいてい)の同母弟で、342年に東海王(とうかいおう)に封じられた。晋書(しんじょ)の后妃伝(こうひでん)によれば、母の周氏(しゅうし)は成帝(せいてい)の宮で寵愛(ちょうあい)されて哀帝(あいてい)と司馬(しば)奕(えき)を生んだので、司馬(しば)奕(えき)は成帝(せいてい)の子にあたる。365年、哀帝(あいてい)が後嗣なく崩じると、翌日の皇太后の詔で大統(だいとう)を継ぐことになり、百官が邸に迎えてその日のうちに即位した。

治世と最期

晋書(しんじょ)の本紀(ほんぎ)は、桓温(かんおん)が枋頭(ほうとう)の敗戦で威名を挫かれたため、廃立で威権を伸ばそうとし、慎み深い帝には閨房(けいぼう)のことが誣(し)いやすいと見たと記す。郗(ち)超伝は、廃立は郗(ち)超が桓温(かんおん)に説いたことに始まるとする。桓温(かんおん)は、帝が藩王(はんおう)のころから痿疾(いしつ)を患い、田氏(でんし)・孟氏(もうし)が生んだ三人の男子は帝の子ではないと言い立て、資治通鑑(しじつがん)によればこの話を民間にひそかに流した。本紀(ほんぎ)と資治通鑑(しじつがん)はこれを桓温(かんおん)の作り話とするが、晋書(しんじょ)の五行志(ごぎょうし)は海西公(かいせいこう)の不能を事実として書く。資治通鑑(しじつがん)によれば、廃位を請われた褚(ちょ)太后(たいこう)は奏を数行見て、もともとこれを疑っていたと言い、悲嘆の句を書き足した。372年、太后の令で東海王(とうかいおう)に落とされ、白い帽子と単衣で西堂(せいどう)を下り、牛車で神獣門(しんじゅうもん)を出ると、群臣は拝辞してすすり泣いた。数日後、その子らと母が殺され、殺された子を簡文帝(かんぶんてい)紀(き)は二人とし、資治通鑑(しじつがん)は桓温(かんおん)が三人を殺したとする。まもなく海西県公(かいせいけんこう)に落とされて呉県(ごけん)へ移され、見張りを付けられた。その年の暮れ、盧悚(ろしょう)の弟子の許龍が太后の密詔(みっしょう)と称して復位に迎えに来たが、保母の諫(いさ)めを容れてとどまり、太后の詔なら官属(かんぞく)が来るはずだと許龍を縛らせようとした。その後は禍を恐れて酒色に耽(ふけ)り、子があっても育てずに天寿を保とうとし、朝廷はもはや警戒しなかった。386年に呉で薨(こう)じた。本紀(ほんぎ)と資治通鑑(しじつがん)は死因を書かず、このサイトの死因が病死となっているのは、本紀(ほんぎ)の史臣(ししん)が天寿を全うしたと評していることによる。

在位中の出来事(10件)

大赦365年3月31日興寧三年、哀帝崩御・無嗣を受け百官が琅邪王奕を奉迎、即位当日に大赦。
立后365年8月興寧三年七月壬子、立皇后庾氏。
被反乱365年11月〜366年7月司马勋の乱(梁州刺史が成都王を僭称)
改元366年元号を「太和」とする
被反乱366年〜367年赵弘・赵忆の宛城反乱
大赦368年太和三年三月癸亥、大赦。
被反乱369年〜371年袁真・袁瑾の寿阳反乱
被反乱370年広汉・益州の妖賊李弘・李金根の乱
大赦371年太和六年四月戊午、大赦、賜窮独米人五斛。
被反乱372年1月桓温による廃立クーデター(廃帝の廃位)

東晋の歴代皇帝

11名の一覧

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