東晋第11代分裂期の王朝
恭帝司馬徳文
在位 419年1月28日〜420年7月7日(1年161日)
姓司馬諱徳文
恭帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 魏書 島夷傳(司馬叡)
- 即位経路
- 晉書 帝紀第十 恭帝
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
劉裕に立てられて位に就き、劉裕に位を譲って東晋を終わらせ、退位の翌年に殺された皇帝である。晋書の賛は、恭帝を周の赧王や楚の懐王になぞらえ、名ばかりの帝号として晋の滅亡を述べる。
即位まで
安帝の同母弟で、はじめ琅邪王に封じられた。桓玄が帝位を奪うと安帝とともに尋陽に移され、桓玄の死後に桓振が安帝を詰問したときには、これが我ら兄弟の意であろうかと言い、桓振は馬を下りて拝した。劉裕の北伐に同行し、後秦が滅ぶと都に帰った。419年に安帝が没すると、劉裕は遺詔を偽って恭帝に位を継がせた。晋書の安帝紀は、劉裕がひそかに王韶之に安帝を縊り殺させたとし、宋書の王韶之伝は毒を盛らせたとする。資治通鑑は、毒殺を謀ったが恭帝が常に安帝のそばにいて果たせず、恭帝が病で外に出た隙に縊り殺したと書く。宋書の武帝紀は天子が没して琅邪王が即位したとだけ記し、殺害にも偽の遺詔にも触れない。
治世と最期
即位の年に元熙と改元し、褚氏を皇后に立てた。420年、劉裕の意を受けた傅亮が禅位をほのめかすと、恭帝は、晋はとうに天下を失っている、今さら何を恨もうと言い、自ら赤い紙に詔を書いて琅邪の邸へ退いた。零陵王として秣陵に住んだ恭帝は禍を恐れ、飲食はすべて褚后が用意したが、421年、劉裕が后の兄に后を呼び出させた間に兵が垣を越えて入り、恭帝を殺した。魏書の島夷伝と資治通鑑は、兵が毒を勧めると、仏教では自ら命を絶った者は再び人に生まれないと言って拒み、布団をかぶせられて殺されたと書く。宋書の武帝紀は零陵王の死と葬儀を記すが、殺害には触れない。
在位中の出来事(3件)
大赦419年1月28日義熙十四年十二月戊寅、安帝崩御の当日、劉裕が偽の遺詔を発し琅邪王徳文(恭帝)を即位させた。
改元419年2月元号を「元熙」とする
立后419年2月