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東晋(とうしん)第11代分裂期の王朝

恭帝(きょうてい)司馬徳文(しばとくぶん)

在位 419年1月28日〜420年7月7日(1年161日)

姓司馬(しば)諱徳文(とくぶん)

恭帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 419年1月28日〜420年7月7日
在位 1年161日長さは365名中276位
没年
421年11月36歳(数え年)267名中長寿順151位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
擁立
先代
  • 安帝東晋恭帝は安帝の弟
次代
  • 武帝宋・南北朝武帝と恭帝に血縁はない

出典(死因・即位経路)

死因
魏書 島夷傳(司馬叡)
即位経路
晉書 帝紀第十 恭帝

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

劉裕(りゅうゆう)に立てられて位に就き、劉裕(りゅうゆう)に位を譲って東晋(とうしん)を終わらせ、退位の翌年に殺された皇帝である。晋書(しんじょ)の賛(さん)は、恭帝(きょうてい)を周の赧王(たんおう)や楚(そ)の懐王(かいおう)になぞらえ、名ばかりの帝号(ていごう)として晋(しん)の滅亡を述べる。

即位まで

安帝(あんてい)の同母弟で、はじめ琅邪王(ろうやおう)に封じられた。桓玄(かんげん)が帝位を奪うと安帝(あんてい)とともに尋陽(じんよう)に移され、桓玄(かんげん)の死後に桓(かん)振が安帝(あんてい)を詰問したときには、これが我ら兄弟の意であろうかと言い、桓(かん)振は馬を下りて拝した。劉裕(りゅうゆう)の北伐(ほくばつ)に同行し、後秦(こうしん)が滅ぶと都に帰った。419年に安帝(あんてい)が没すると、劉裕(りゅうゆう)は遺詔(いしょう)を偽って恭帝(きょうてい)に位を継がせた。晋書(しんじょ)の安帝(あんてい)紀(き)は、劉裕(りゅうゆう)がひそかに王韶之(しょうし)に安帝(あんてい)を縊(くび)り殺させたとし、宋書(そうじょ)の王韶之(しょうし)伝は毒を盛らせたとする。資治通鑑(しじつがん)は、毒殺を謀ったが恭帝(きょうてい)が常に安帝(あんてい)のそばにいて果たせず、恭帝(きょうてい)が病で外に出た隙に縊(くび)り殺したと書く。宋書(そうじょ)の武帝(ぶてい)紀(き)は天子が没して琅邪王(ろうやおう)が即位したとだけ記し、殺害にも偽の遺詔(いしょう)にも触れない。

治世と最期

即位の年に元熙(げんき)と改元(かいげん)し、褚(ちょ)氏を皇后に立てた。420年、劉裕(りゅうゆう)の意を受けた傅(ふ)亮(りょう)が禅位(ぜんい)をほのめかすと、恭帝(きょうてい)は、晋(しん)はとうに天下を失っている、今さら何を恨もうと言い、自ら赤い紙に詔を書いて琅邪(ろうや)の邸へ退いた。零陵王(れいりょうおう)として秣陵(まつりょう)に住んだ恭帝(きょうてい)は禍を恐れ、飲食はすべて褚后(ちょこう)が用意したが、421年、劉裕(りゅうゆう)が后の兄に后を呼び出させた間に兵が垣を越えて入り、恭帝(きょうてい)を殺した。魏書(ぎしょ)の島夷伝(とういでん)と資治通鑑(しじつがん)は、兵が毒を勧めると、仏教では自ら命を絶った者は再び人に生まれないと言って拒み、布団をかぶせられて殺されたと書く。宋書(そうじょ)の武帝(ぶてい)紀(き)は零陵王(れいりょうおう)の死と葬儀を記すが、殺害には触れない。

在位中の出来事(3件)

大赦419年1月28日義熙十四年十二月戊寅、安帝崩御の当日、劉裕が偽の遺詔を発し琅邪王徳文(恭帝)を即位させた。
改元419年2月元号を「元熙」とする
立后419年2月

東晋の歴代皇帝

11名の一覧

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