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北周(ほくしゅう)(南北朝(なんほくちょう))第5代分裂期の王朝

静帝(せいてい)宇文(うぶん)闡(せん)

在位 579年4月1日〜581年3月4日(1年338日)

姓宇文(うぶん)諱闡(せん)

静帝の人物データ

生年
573年7月
在位
  • 579年4月1日〜581年3月4日
在位 1年338日7歳で即位(数え年)・長さは365名中266位
没年
581年7月9日9歳(数え年)267名中長寿順261位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
内禅
先代
  • 宣帝北周静帝は宣帝の子
次代
  • 文帝隋文帝は静帝の外戚

出典(死因・即位経路)

死因
資治通鑑 巻175/隋書 巻1 高祖紀上/周書 巻8 静帝紀
即位経路
周書 巻8 静帝紀

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

父の宣帝(せんてい)から生前に位を譲られた幼帝で、外戚(がいせき)の楊堅(ようけん)に政を握られて隋(ずい)に位を譲り、まもなく没した北周(ほくしゅう)の最後の皇帝である。

即位まで

宣帝(せんてい)の長子で、母は朱皇后(こうごう)であり、573年に東宮(とうぐう)で生まれた。579年に皇太子に立てられ、翌月には存命の宣帝(せんてい)から位を伝えられた。

治世と最期

580年に宣帝(せんてい)が没すると、随国公(ずいこくこう)の楊堅(ようけん)が左大丞相(だいじょうしょう)となり、百官は楊堅(ようけん)の指揮を受けた。隋書(ずいしょ)の高祖(こうそ)紀(き)は、鄭訳(ていやく)と劉昉(りゅうぼう)が詔を偽って楊堅(ようけん)を引き入れたと書き、周書(しゅうしょ)の静帝(せいてい)紀(き)はこれに触れない。同じ年、相州(そうしゅう)総管(そうかん)の尉遅迥(うっちけい)が兵を挙げ、司馬消難(しばしょうなん)と王謙もこれに続いた。尉遅迥(うっちけい)は鄴(ぎょう)で敗れ、司馬消難(しばしょうなん)は陳へ逃れ、王謙は斬られた。周書(しゅうしょ)は尉遅迥(うっちけい)が自殺したと書き、隋書(ずいしょ)は首が都に送られたと書く。楊堅(ようけん)の輔政(ほせい)のもとで、趙王(ちょうおう)招ら北周(ほくしゅう)の宗室(そうしつ)の王たちが相次いで誅(ちゅう)された。581年に楊堅(ようけん)が帝位に就くと、静帝(せいてい)は別宮(べつぐう)に退いて介国公(かいこくこう)とされた。周書(しゅうしょ)は、礼遇は文面にあるだけで行われなかったと付け加える。同じ年に没し、周書(しゅうしょ)は隋(ずい)の意向による死であると書き添え、資治通鑑(しじつがん)は隋(ずい)の文帝(ぶんてい)がひそかに殺したと書く。隋書(ずいしょ)の高祖(こうそ)紀(き)は死の事情を記さず、日を周書(しゅうしょ)の前日とする。

在位中の出来事(8件)

大赦580年
大赦580年
被反乱580年尉迟迥の乱(相州総管、青州総管尉迟勤・荥州刺史宇文冑が呼応)
被反乱580年司马消难の乱(郧州総管)
被反乱580年王谦の乱(益州総管、沙州氐帥楊永安が呼応)
被反乱580年申州刺史李慧の乱
被反乱580年豫州・荆州・襄州蛮族の乱
改元581年2月元号を「大定」とする

北周の歴代皇帝

4名の一覧

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