隋統一王朝対立・僭称の皇帝
恭帝侗楊侗
在位 618年6月22日〜619年5月23日(335日)
姓楊諱侗字仁謹諡号恭帝別称皇泰主
恭帝侗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 隋書 巻五十九 列伝第二十四(煬三子・越王侗)
- 即位経路
- 隋書 巻五十九 列伝第二十四(煬三子・越王侗)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
煬帝の死後に洛陽で立てられ、王世充に位を奪われたうえ毒を仰がされた隋の皇帝である。
即位まで
煬帝の太子だった元徳太子の子で、606年に越王に立てられ、煬帝が巡幸するたびに洛陽の留守を務めた。616年に煬帝が江都へ行くと、段達・元文都らとともに留守の政務を総べた。618年に宇文化及が煬帝を殺すと、元文都らは血筋が最も近い楊侗を推し立て、大赦して皇泰と改元した。
治世と最期
政務は段達・王世充・元文都ら7人に委ねられ、洛陽の人々は彼らを七貴と呼んだ。宇文化及が迫ると李密を招いて降らせ、高い官を与えて化及を防がせた。七貴はやがて仲違いし、元文都・盧楚らが王世充に殺されてからは、楊侗は政事に関われなくなった。王世充を除こうとした謀も果たせなかった。李密を破った王世充が鄭王となり、段達らが禅譲を勧めると、楊侗は天下は高祖の天下だと怒って拒んだ。619年、ついに位を譲らされて含涼殿に閉じ込められた。資治通鑑によれば、禅位は皇泰主の命と称して行われ、辞退の表も勧進の勅書も本人は知らなかった。同じ年、王世充を討って楊侗を復位させようとする謀が発覚すると、王世充は毒酒を届けさせた。楊侗は母との面会も許されず、今後は帝王の家に生まれませんようにと仏に祈って毒を仰いだが、すぐには死なず帛で絞め殺された。毒を届けた者を隋書は甥の王行本とし、資治通鑑は兄の子の王仁則と家奴の梁百年とする。
在位中の出来事(4件)
改元618年6月22日元号を「皇泰」とする
大赦618年6月22日
大赦618年11月6日王世充が李密を破り、その美女・財宝・将卒十余万人を率いて東都に凱旋した数日後、皇泰主(越王侗)の名で大赦が行われた。
被反乱日付不詳王世充による専権掌握・強制禅譲・弑逆(東都政変)