後秦(五胡十六国)第2代分裂期の王朝
文桓帝姚興
在位 394年〜399年(5年1日)
姓姚諱興字子略廟号高祖
文桓帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 晉書/卷118 姚興載記下
- 即位経路
- 晉書/卷117 姚興載記上
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
後秦の第二代で、鳩摩羅什を迎えて経典を訳させたが、晩年は子たちの後継争いに苦しんだ人物である。
即位まで
姚萇の長子で、前秦の苻堅の太子舎人だったが、長安から危険を冒して父のもとへ奔り、皇太子に立てられた。父の没後は喪を伏せて叔父や弟を要地に置き、自ら大将軍と称して苻登を討った。尹緯が苻登を大破したのちに喪を発し、394年に槐里で帝位に即いて皇初と改元した。資治通鑑は、399年に災異がしきりに現れたとして帝号を降ろして王と称し、弘始と改元したと記し、晋書載記も日月の蝕と災異を理由に挙げて、年を付けずに同じことを記す。魏書はこれを398年とし、元号の字も洪始と書く。
治世と最期
鳩摩羅什を国師の礼で迎えて逍遙園で経典を訳させ、八百余人の沙門とともに新旧の経典を校訂させ、ほかにも三百余巻の経論を訳出させた。州郡では仏に仕える者が十軒に九軒に及んだ。402年には北魏を討とうと蒲坂まで来ながら進まず、柴壁で囲まれた姚平は汾水に身を投げ、四万余人が魏に捕らえられた。赫連勃勃は後秦に背き、討伐に向かった姚興は弐城で勃勃の騎兵に急襲された。晩年は寵愛した子の姚弼が尚書令となって皇太子姚泓を圧し、位を奪おうとした。姚興が病むと姚弼は兵を伏せたが、姚興は姚弼を誅さず官を免じるにとどめた。病が重くなると、年少の子の耕児が上はすでに崩じたと兄の姚愔に告げ、姚愔は端門を攻めて焼いたが、姚興は病を押して前殿に出て姚弼に死を賜った。その後、姚紹らに輔政を託した翌日に没した。没年を晋書の載記は416年とし、安帝紀は415年とするが、資治通鑑の考異は415年を誤りと判断している。
在位中の出来事(31件)
親征393年〜394年苻登(前秦残存政権)
改元394年元号を「皇初」とする
大赦394年
親征394年強熙・楊多・竇沖(自立を図った後秦の将軍ら)
被反乱394年強熙・楊多・竇沖の乱
被反乱394年〜396年鮮卑薛勃の乱(初回)
親征397年鮮卑薛勃(二度目の大規模反乱、上郡・弐川の雑胡も呼応)
被反乱397年鮮卑薛勃の乱(二回目・大規模)
親征398年〜399年東晋(弘農・陝城・上洛)
改元399年元号を「弘始」とする
残り21件を表示
大赦399年
被反乱399年〜400年武都氐・屠飛・啖鉄の乱
被反乱399年〜406年仇池公・楊盛の乱(第一次)
親征400年乞伏乾帰(西秦、当時は独立政権)
親征402年北魏
親征407年〜408年赫連勃勃(旧配下の没奕于を殺して自立した夏国)
被反乱407年〜416年赫連勃勃(夏)の乱
親征410年赫連勃勃配下の胡金纂ほか(平涼方面)
被反乱410年乞伏乾帰の再叛
被反乱411年〜412年貳県羌の乱
被反乱412年〜413年遼東侯・弥姐亭地の乱
被反乱413年〜416年姚弼(広平公)・姚愔のクーデター未遂
親征415年赫連勃勃(杏城方面)
親征415年〜416年妖賊李弘・氐仇常(貳原の反乱)
親征415年〜416年仇池公楊盛
被反乱415年〜416年妖賊李弘・氐仇常の乱
被反乱415年〜416年仇池公・楊盛の乱(第二次)
大赦日付不詳
大赦日付不詳
立后日付不詳
立后日付不詳
後秦の歴代皇帝
3名の一覧- 第1代武昭帝386–393年病死
- 第2代文桓帝394–399年病死
- 第3代姚泓416–417年処刑