
明第13代統一王朝
隆慶帝朱載坖
在位 1567年2月4日〜1572年7月5日(5年153日)
隆慶帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 明史 本紀十九(穆宗)
- 即位経路
- 明史 本紀十九(穆宗)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
穆宗は世宗の第三子で、母は杜康妃である。明史の本紀は名を載垕と記す。1567年に即位して隆慶と改元し、1572年に乾清宮で崩じた。明史の賛は在位六年と記す。
即位まで
明史によれば、1539年に裕王に封ぜられ、庄敬太子・景恭王と同じ日に冊を受けた。庄敬太子が薨じたのち、世宗は裕王が年長で賢いとして継嗣は定まっていたが、朝野の危疑と諫言が続き、景王を封国へ赴かせた。明史の本紀は、世宗が崩じた庚子から12日後の壬子に穆宗が皇帝位に即いたと記す。即位すると隆慶と改元して天下に大赦し、遺詔で先朝の不便な政令を改め、方士を法司に付し、斎醮の工作を罷め、獄中の海瑞を釈放した。
治世と最期
即位の年に陳氏を皇后に立て、陳以勤と張居正が機務に預かった。1568年には皇子の翊鈞、のちの神宗を皇太子に立て、天下に赦を下した。1569年に広東の賊が平らぎ、曾一本が誅せられた。1570年に俺答の孫の把漢那吉が来降した。同じ年の末、俺答は叛人の趙全ら九人を捕えて献じ、帝は把漢那吉を帰らせて厚く賜った。1571年、俺答は順義王に封ぜられ、三鎮の貢市が成った。明史の穆宗本紀は、この一連を孫の来降・趙全らの引き渡し・順義王封・互市の記事で記し、和議という呼称は用いない。1572年、帝は皇極殿門に出御して疾が起こり、急ぎ還宮した。のち疾が大漸となると、高拱・張居正・高儀を召して顧命を受けさせ、乾清宮で崩じた。本紀は病名を記さず、疾作・大漸の語があるだけである。高拱伝は、帝の意は閣臣に専ら任せることにあったが、宦官が遺詔と偽って馮保との共事を命じたと記す。明史の賛は、封貢を許し減賦で民を休ませたと称える一方、重臣同士が争い、帝は乾綱を振るえず、寛恕は余りあるが剛明が足りなかったとも評する。
在位中の出来事(8件)
明の歴代皇帝
16名の一覧- 第1代洪武帝1368–1398年病死
- 第2代建文帝1398–1402年諸説あり
- 第3代永楽帝1402–1424年病死
- 第4代洪熙帝1424–1425年病死
- 第5代宣徳帝1425–1435年病死
- 第6・8代正統帝1435–1449年 / 1457–1464年病死
- 第7代景泰帝1449–1457年諸説あり
- 第9代成化帝1464–1487年病死
- 第10代弘治帝1487–1505年病死
- 第11代正徳帝1505–1521年病死
- 第12代嘉靖帝1521–1567年病死
- 第13代隆慶帝1567–1572年病死
- 第14代万暦帝1572–1620年病死
- 第15代泰昌帝1620年諸説あり
- 第16代天啓帝1620–1627年病死
- 第17代崇禎帝1627–1644年自尽