
清第8代統一王朝
道光帝旻寧
在位 1820年10月3日〜1850年2月25日(29年152日)
姓愛新覚羅諱旻寧廟号宣宗諡号成皇帝元号道光
道光帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 清史稿 宣宗本紀三
- 即位経路
- 清史稿 宣宗本紀一
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
秘密の立儲によって位を継ぎ、鴉片をめぐる英国との戦争に敗れて五港を開いた清の皇帝である。清史稿の論は、恭倹寛仁の守成の君としつつ、外国との貿易から戦が起こり、国の傾きはここに始まったと評する。
即位まで
嘉慶帝の次子で、母は孝淑睿皇后である。1799年、嘉慶帝は家法に従って旻寧の名を自ら書き、箱に封じた。1813年に林清の一党が紫禁城に乱入したときには、鳥銃で賊2人を撃ち倒し、智親王に封じられた。1820年に嘉慶帝が熱河で危篤となると、大臣たちが箱を開いて旻寧を皇太子に立て、皇太后も懿旨を下して位に就くよう伝えた。同じ年に太和殿で即位した。
治世と最期
1828年には回疆の張格爾を捕らえ、市で磔にした。林則徐を欽差大臣として広東へ送り、林則徐は1839年に英商から鴉片二万箱余りを差し出させて焼いた。1840年に英軍が定海を落とすと、林則徐を罷免し、琦善を両広総督に任じて広東へ送った。邦交志によれば、琦善は香港を英に許しながら上奏できず、のちに英の文書を奏すると帝は怒って許さなかった。1842年に耆英らが英軍と停戦を議し、条約に御宝を押すことを請うた。邦交志は、英が銀二千百万両と香港、五港の通商を求め、静海寺で調印したと書くが、清史稿の宣宗本紀は条約の名も香港の割譲も記さない。1850年、皇太后の喪に服しながら病に倒れ、危篤のなかで箱を開かせて皇四子を皇太子に立て、その日に円明園で没した。
在位中の出来事(40件)
改元1820年10月3日元号を「道光」とする
大赦1820年10月3日即位・建元の詔と同日に発布された恩赦。
被反乱1821年河南新蔡教匪硃麻子起義
立后1822年継妃佟佳氏(のちの孝慎成皇后)を皇后に冊立。
被反乱1822年河南虞城盧照常起義
被反乱1826年〜1828年張格爾之乱(回疆)
被反乱1829年回疆安集延回匪再侵
被反乱1831年広東黎匪起義
被反乱1832年湖南江華瑶族趙金龍起義
被反乱1832年和闐回塔瓦克起義
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被反乱1832年教匪尹老須起義
被反乱1832年〜1833年台湾嘉義張丙・陳辦起義
被反乱1832年広東曲江・乳源盗匪起義
被反乱1833年〜1838年四川越巂・瓘辺・馬辺彝族起義(反復)
立后1834年皇貴妃鈕祜祿氏(のちの孝全成皇后)を皇后に冊立。
被反乱1834年広東儋州黎匪起義
被反乱1835年山西趙城曹順起義
被反乱1836年湖南武岡州藍正樽起義
被反乱1837年山東濰県教匪馬剛起義
被反乱1837年福建嘉義教匪沈知起義
被反乱1838年〜1839年貴州仁懐謝法真起義
被反乱1841年〜1842年湖北崇陽鍾人傑起義
被反乱1843年湖南武岡曾如炷起義
被反乱1844年湖南耒陽楊大鵬起義
被反乱1845年甘粛西寧番族起義
被反乱1845年山東捻匪初期蜂起
被反乱1846年雲南永昌回漢衝突
被反乱1846年湖南新田王棕献起義
被反乱1846年江蘇昭文金得順起義
被反乱1846年〜1847年回疆布魯特・安集延(七和卓)之乱
被反乱1847年雲南雲州回匪起義
被反乱1847年〜1848年湖南新寧瑶族雷再浩起義
被反乱1847年〜1848年湖南乾州苗族起義
被反乱1848年江西長寧・崇義匪乱
被反乱1848年雲南趙州・保山匪乱
被反乱1849年四川瞻対番工布朗結起義
被反乱1849年雲南騰越・保山界外野夷起義
被反乱1849年福建閩県林仕起義
被反乱1849年湖南新寧李沅發起義
被反乱1849年湖南道州黄三起義