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昭武帝の肖像

呉(ご)周(しゅう)(清(しん))第1代反乱・自称政権

昭武帝(しょうぶてい)呉三桂(ごさんけい)

在位 1678年3月23日〜1678年10月2日(193日)

姓呉(ご)諱三桂(さんけい)字長伯(ちょうはく)別称太祖(たいそ)

昭武帝の人物データ

生年
1612年
在位
  • 1678年3月23日〜1678年10月2日
在位 193日67歳で即位(数え年)・長さは365名中315位
没年
1678年10月2日67歳(数え年)267名中長寿順21位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
—
次代

出典(死因・即位経路)

死因
清史稿 列伝二百六十一(呉三桂伝)
即位経路
清史稿 列伝二百六十一(呉三桂伝)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

山海関(さんかいかん)を開いて清軍を迎え入れ、のちに雲南(うんなん)で三藩(さんぱん)の乱を起こして、晩年に衡州(こうしゅう)で昭武帝(しょうぶてい)を称した呉三桂(ごさんけい)である。

即位まで

江南(こうなん)高郵(こうゆう)の人で遼東(りょうとう)に籍があり、父の呉(ご)襄(じょう)は明の錦州(きんしゅう)総兵(そうへい)だった。1644年に李自成(りじせい)が北京を破ると、妾の陳氏(ちんし)が劉(りゅう)宗敏(そうびん)に奪われたと聞いて怒り、李自成(りじせい)の守将を撃って睿親王(えいしんのう)に援軍を求めた。明史(みんし)の李自成(りじせい)伝は、呉三桂(ごさんけい)がいったん李自成(りじせい)に降ろうとしていたと書く。清軍とともに李自成(りじせい)の軍を破った当日に平西王(へいせいおう)に進められたが、李自成(りじせい)は父の呉(ご)襄(じょう)と家族を殺した。1662年には緬甸(めんでん)から引き渡された永暦帝(えいれきてい)とその子を弓弦で絞め殺した。雲南(うんなん)に鎮した呉三桂(ごさんけい)は、三藩(さんぱん)の中でも最も驕(おご)っていた。1673年、移藩(いはん)を願い出ると康熙帝(こうきてい)は先手を打ってこれを許し、呉三桂(ごさんけい)は同じ年の末に雲南(うんなん)巡撫(じゅんぶ)を殺して挙兵し、周王(しゅうおう)を名乗った。1678年、挙兵から6年で領地が縮み援軍も減るなか、配下の勧めで帝を称し、昭武(しょうぶ)と改元(かいげん)して衡州(こうしゅう)を定天府(ていてんふ)とした。帝を称した時期は、清史稿(しんしこう)の列伝(れつでん)と聖祖本紀(せいそほんぎ)で4か月ずれる。

治世と最期

衡山(こうざん)に壇を築いて即位の礼を行ったが、当日は大風雨で礼を早々に済ませた。まもなく食べ物が喉を通らなくなる病にかかり、さらに下痢で口もきけなくなって、雲南(うんなん)の孫を呼び寄せたが、着く前に没した。没した日も清史稿(しんしこう)の列伝(れつでん)と聖祖本紀(せいそほんぎ)で10日食い違う。跡を継いだ孫の世璠(せいはん)は1681年に昆明(こんめい)を囲まれて自殺し、翌年、呉三桂(ごさんけい)の遺骸は砕かれて天下に示された。

在位中の出来事(1件)

改元1678年3月23日元号を「昭武」とする

呉周の歴代皇帝

2名の一覧

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