呉周(清)第2代反乱・自称政権
洪化帝呉世璠
在位 1678年〜1681年12月7日(3年330日)
洪化帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 清史稿 列伝二百六十一(呉三桂伝)
- 即位経路
- 清史稿 列伝二百六十一(呉三桂伝)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
呉世璠は呉三桂の孫で、呉応熊の庶子である。祖父の死後に洪化と改号して擁立された。在位は三藩の乱の末期にあたり、1681年に昆明で清軍に囲まれて自殺した。
即位まで
清史稿によれば、呉三桂は1678年に帝を称し、昭武と改元して衡州を定天府とした。三桂は病んで孫の世璠を雲南から召したが、世璠の到着前に死んだ。世璠は三桂の喪に赴いて貴陽に至り、配下に擁立されて帝を称し、洪化と改号した。世璠は方光琛・郭壮図を腹心とした。光琛は三桂が任じた大学士、壮図は国公に封じられた者である。聖祖本紀は三桂の死を記すが、世璠の即位や洪化改元は条に立てない。世璠は敵将として現れるだけである。三桂の死日は、列伝が乙酉、聖祖本紀が乙未とし、干支が合わない。
治世と最期
1680年、清の彰泰が鎮遠を取って平越・貴陽に迫り、世璠は呉応麒らと貴陽から雲南へ逃げ帰った。1681年の春、世璠は高啓隆を大将軍に任じ、夏国相・王会らの二万で彰泰を拒がせたが退けられた。彰泰・賚塔が昆明を攻めると、世璠の遣わした胡国柄は敗れて斬られた。世璠は馬宝・胡国柱・夏国相らを呼び戻したが、馬宝は降り、胡国柱は自縊し、夏国相も降って、援を失った。趙良栋が合流して昆明を数重に囲むと、線緎らが世璠と郭壮図を捕えて降ろうと謀り、世璠と壮図はともに自殺した。世璠の自殺ののち、線緎らが昆明城を挙げて降り、世璠の屍は戮されて首が京師に伝えられた。聖祖本紀は、清軍が雲南城に入って呉世璠が自殺したと報じる。自殺に至った経緯は清史稿の中で違い、呉三桂伝は線緎らが世璠を捕えて降ろうと謀ったためとし、趙良栋伝は城外の戦いで大敗したためとする。方法は彰泰伝だけが首をくくったと書く。翌1682年の春、議政王大臣の請により三桂の骸を析いて天下に示し、世璠の首を市に懸けた。
在位中の出来事(4件)
呉周の歴代皇帝
2名の一覧- 第1代昭武帝1678年病死
- 第2代洪化帝1678–1681年自尽