金第10代分裂期の王朝
末帝完顔承麟
在位 1234年2月9日〜1234年2月9日(1日未満)
姓完顔諱承麟
末帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 金史 巻十八(哀宗本紀下)
- 即位経路
- 金史 巻十八(哀宗本紀下)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
金の最後の皇帝で、蔡州の籠城のさなかに哀宗から位を譲られ、即位したその日に城が落ちて殺された。
即位まで
都尉から、蔡州の籠城中に東面元帥・権総帥に任じられた。完顔仲德伝によれば、四面から攻められて救援に苦しんだ完顔仲德が、末帝を東面に充てるよう推した。白撒伝は、末帝を白撒の弟で世祖の諸孫の系統に出るとする。1234年の初めの夜、哀宗は百官を集めて末帝に位を伝えようとし、末帝は固く辞退した。哀宗は、自分は体が肥えて馬で駆け抜けられないが、末帝は敏捷で将略があり、万一逃れれば皇統が絶えないと詔して位を託した。大金国志は伝位の日時を別に記し、哀宗が自ら符璽を手渡したとする。
治世と最期
翌日に即位すると、百官の祝賀が終わるとすぐに出て敵を防いだが、南面にはすでに敵の旗が立っていた。守兵が門を棄てて大軍が城に入り、哀宗は幽蘭軒で自ら首をくくった。末帝は子城に退いて守り、哀宗の死を聞くと群臣を率いて哭し、哀と諡した。哭奠が終わらないうちに城が潰え、末帝は乱兵に殺されて金は滅んだ。宋史と大金国志も乱兵に殺されたとするが、元史は捕らえてから殺したと記す。大金国志は、蔡八児だけが即位した末帝に拝さずに戦死したと記す。金史は末帝の列伝を立てず、生年も年齢も記さない。