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金(きん)第4代分裂期の王朝

海陵王(かいりょうおう)完顔(ワンヤン)亮(りょう)

在位 1150年1月9日〜1161年12月15日(11年343日)

女真名迪古乃(ディグナイ)字元功(げんこう)諡号煬(よう)

海陵王の人物データ

生年
1122年
在位
  • 1150年1月9日〜1161年12月15日
在位 11年343日長さは365名中114位
没年
1161年12月15日40歳(数え年)267名中長寿順130位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
簒奪
先代
  • 熙宗金海陵王は熙宗の従兄弟
次代
  • 世宗金世宗は海陵王の従兄弟
目立つ記録
  • 遷都1回(42名中9位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
金史 巻五(海陵本紀)/巻一百三十二(逆臣伝末尾論賛)
即位経路
金史 巻五(海陵本紀)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

熙宗(きそう)を殺して金の帝位に就き、都を燕京(えんけい)へ移したが、南宋(なんそう)を攻める途中で部下に殺され、死後に庶人(しょじん)に落とされた皇帝である。金史(きんし)の賛(さん)は、君を殺し母を殺した海陵(かいりょう)を後世が無道の主の筆頭に挙げると評する。

即位まで

太祖(たいそ)の長子、遼王(りょうおう)宗幹(そうかん)の第二子である。太祖(たいそ)の嫡孫(ちゃくそん)として熙宗(きそう)が位を継いだのに対し、自分も太祖(たいそ)の孫であることから帝位をうかがった。唐括(とうかつ)辯との廃立の密談で誰を立てるかと問われると、やむを得なければ自分でなくて誰がいると答えた。1150年の初めの夜、大興国(こうこく)が門を開けて海陵(かいりょう)らを寝殿に入れ、熙宗(きそう)を殺し、一同は海陵(かいりょう)を座に就けて万歳を称した。

治世と最期

同じ年、宗本(そうほん)・唐括(とうかつ)辯らを殺し、太宗(たいそう)の子孫七十余人、宗翰(そうかん)の子孫三十余人、宗室(そうしつ)五十余人を殺させた。1151年に燕京(えんけい)への遷都を詔し、1153年に燕京(えんけい)に着いて中都(ちゅうと)と改めた。1157年には旧都会寧府(かいねいふ)の宮殿や大族の邸を壊して、跡地を耕地にさせた。1159年から宋(そう)を討つための船を造らせて兵を籍に入れ、1161年には諫(いさ)めた嫡母(ちゃくぼ)の皇太后を殺して、遺体を焼かせた。同じ年に自ら宋(そう)へ攻め入ったが、軍中から逃げ帰る者が道に続き、遼陽(りょうよう)では世宗(せいそう)が即位して海陵(かいりょう)の罪を数え上げた。長江(ちょうこう)を渡る試みについて、金史(きんし)の本紀(ほんぎ)は先に渡らせた部隊が南岸で敗れたとだけ書き、宋史(そうし)の虞允文(いんぶん)伝は采石(さいせき)で金軍を大敗させて死者が四千余に上ったと記す。同じ年、瓜洲渡(かしゅうと)に水軍を集めて翌日の渡江を期したところで、完顔(かんがん)元宜(げんぎ)らの軍が反して殺された。元宜(げんぎ)伝によれば、宋(そう)兵の夜襲と思って起きた海陵(かいりょう)は、帳に入った矢を見てわが兵だと驚き、矢に倒れたのちに斬られ、遺体は焼かれた。1162年に海陵郡王(かいりょうぐんおう)へ落とされ、1180年に有司(ゆうし)が罪を正すよう奏したのを受けて、1181年の初めにはさらに海陵(かいりょう)庶人(しょじん)とされた。

在位中の出来事(13件)

改元1150年1月11日元号を「天徳」とする
大赦1150年1月11日皇統九年十二月己未(熙宗弑殺・即位から2日後)、改元天德と同日に大赦。
立后1150年10月13日天德二年九月甲午、惠妃徒単氏を皇后に冊立。
改元1153年元号を「貞元」とする
遷都1153年上京会宁府 → 中都(燕京)
改元1156年元号を「正隆」とする
大赦1156年正隆元年二月癸酉朔、改元正隆と同日に大赦。
被反乱1158年東海県 張旺・徐元の乱
被反乱1161年6月契丹諸部の反乱
被反乱1161年8月24日単州 杜奎の反乱
残り3件を表示
親征1161年10月〜1161年12月南宋(伐宋・南征、江淮方面)
被反乱1161年10月大名府 王九の反乱
被反乱1161年12月15日完顔元宜の兵変(南征軍反乱・弑逆)

金の歴代皇帝

10名の一覧

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