金第4代分裂期の王朝
海陵王完顔亮
在位 1150年1月9日〜1161年12月15日(11年343日)
海陵王の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 金史 巻五(海陵本紀)/巻一百三十二(逆臣伝末尾論賛)
- 即位経路
- 金史 巻五(海陵本紀)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
熙宗を殺して金の帝位に就き、都を燕京へ移したが、南宋を攻める途中で部下に殺され、死後に庶人に落とされた皇帝である。金史の賛は、君を殺し母を殺した海陵を後世が無道の主の筆頭に挙げると評する。
即位まで
太祖の長子、遼王宗幹の第二子である。太祖の嫡孫として熙宗が位を継いだのに対し、自分も太祖の孫であることから帝位をうかがった。唐括辯との廃立の密談で誰を立てるかと問われると、やむを得なければ自分でなくて誰がいると答えた。1150年の初めの夜、大興国が門を開けて海陵らを寝殿に入れ、熙宗を殺し、一同は海陵を座に就けて万歳を称した。
治世と最期
同じ年、宗本・唐括辯らを殺し、太宗の子孫七十余人、宗翰の子孫三十余人、宗室五十余人を殺させた。1151年に燕京への遷都を詔し、1153年に燕京に着いて中都と改めた。1157年には旧都会寧府の宮殿や大族の邸を壊して、跡地を耕地にさせた。1159年から宋を討つための船を造らせて兵を籍に入れ、1161年には諫めた嫡母の皇太后を殺して、遺体を焼かせた。同じ年に自ら宋へ攻め入ったが、軍中から逃げ帰る者が道に続き、遼陽では世宗が即位して海陵の罪を数え上げた。長江を渡る試みについて、金史の本紀は先に渡らせた部隊が南岸で敗れたとだけ書き、宋史の虞允文伝は采石で金軍を大敗させて死者が四千余に上ったと記す。同じ年、瓜洲渡に水軍を集めて翌日の渡江を期したところで、完顔元宜らの軍が反して殺された。元宜伝によれば、宋兵の夜襲と思って起きた海陵は、帳に入った矢を見てわが兵だと驚き、矢に倒れたのちに斬られ、遺体は焼かれた。1162年に海陵郡王へ落とされ、1180年に有司が罪を正すよう奏したのを受けて、1181年の初めにはさらに海陵庶人とされた。
在位中の出来事(13件)
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金の歴代皇帝
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