金第8代分裂期の王朝
宣宗完顔珣
在位 1213年9月22日〜1224年1月14日(10年116日)
女真名吾睹補
宣宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 金史 巻十六(宣宗本紀下)
- 即位経路
- 金史 巻十三(衛紹王本紀)/巻一百二(徒単鎰伝)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
宣宗は完顔珣で、顕宗の長子である。1213年に衛紹王が弑されたあとに迎えられて即位し、1214年に中都から汴京へ遷った。
即位まで
金史は、顕宗を世宗の第二子、衛紹王を第七子と記し、完顔珣は顕宗の長子で、世宗が宮中で養ったとする。衛紹王紀は、紇石烈胡沙虎が衛紹王を幽閉し、宦官の李思中に害させたと記す。徒単銘らが彰徳府で完顔珣を迎え、宣宗は大安殿で皇帝の位に就いた。即位からしばらくのち、術虎高琪が胡沙虎を邸で殺した。
治世と最期
1214年、宣宗は衛紹王の公主を蒙古の太祖に嫁がせて和を請うた。宣宗は南遷を決意して国内に詔し、太学生の趙昉らの反対上書を、大計は既に定まったとして退けた。汴京に着くと、元妃の温敦氏を皇后に立てた。宋史全文は、金主が汴京に遷ったのち、蒙古が、既に和して遷るのは疑心を懐くものだと怒り、軍を分けて中原の州郡を攻めさせたと記す。1215年、中都が陥落し、守っていた承暉は死んだ。1222年、宣宗は彗星の出現によって元光と改元し、大赦した。1224年、宣宗は病で朝を免じ、寧徳殿で崩じた。皇太子は、護衛に英王守純を監視させたうえで、柩の前で即位した。金史の賛は、宣宗に励精図治の志はあったが成功せず、再び遷って国を失ったと総括する。
在位中の出来事(40件)
改元1213年9月30日元号を「貞祐」とする
大赦1213年9月30日至寧元年(即位当時の年号、後に貞祐に改元)九月壬子。
被反乱1213年11月蘭州訳人程陳僧の叛
大赦1214年貞祐二年三月丁丑。
大赦1214年
立后1214年貞祐二年七月(日次不明)。
被反乱1214年〜1215年李友直の乱(京兆・華州)
遷都1214年中都 → 南京(汴京)
大赦1215年貞祐三年八月戊申。
被反乱1215年北京(大寧)軍乱
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被反乱1215年楊安兒の乱(紅襖賊)
被反乱1215年劉二祖の乱(紅襖賊・大沫堌)
被反乱1215年張汝楫の再叛計画
被反乱1215年周元兒の乱(紅襖賊・深祁州)
被反乱1215年蒲察七斤の大元投降
被反乱1215年蒲鮮萬奴の自立(遼東・大真国)
被反乱1216年郝定の乱(紅襖賊・僭号)
改元1217年元号を「興定」とする
大赦1217年興定元年九月壬午。
被反乱1217年石海の叛(真定拠点)
被反乱1217年宋子玉の叛(孟州経略司)
被反乱1217年南陽五朶山盗
被反乱1217年平定州閻德用の乱
被反乱1217年済南・泰安・滕・兖州群賊
被反乱1217年蘭州水軍李平の乱
被反乱1217年花帽軍の乱(滕州)
大赦1218年興定二年十一月庚午。
被反乱1218年萊州曲貴の乱
被反乱1218年石州馮天羽の乱
被反乱1219年王善の叛(中山府)
被反乱1220年滄州陥落・益都賊張林
被反乱1220年時青の帰順(紅襖賊)
被反乱1221年碭山県義勇軍の叛
改元1222年元号を「元光」とする
大赦1222年元光元年六月癸未。
大赦1222年元光元年八月甲申。
被反乱1222年恒州軍変(呼延棫)
大赦1223年元光二年二月丁亥。
被反乱1223年陰坡族骨鞠門の西夏帰属
被反乱1223年納合六哥の乱(邳州)