遼第9代分裂期の王朝
天祚帝耶律延禧
在位 1101年2月12日〜1125年3月26日(24年48日)
契丹名耶律阿果字延寧幼名阿果
天祚帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 遼史 巻三十(天祚皇帝紀四)
- 即位経路
- 遼史 巻二十七(天祚皇帝紀一)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
天祚帝は諱を延禧といい、道宗の孫で、1101年に遺詔を奉じて即位した。金の勃興に押されて国を失い、1125年に金に捕らえられた。
即位まで
遼史の本紀は、天祚帝の父を順宗(昭懐太子)、母を貞順皇后蕭氏と記す。1101年に道宗が崩じ、延禧は遺詔を奉じて柩の前で皇帝の位に即いたと本紀は記す。即位の翌月に乾統と改元して大赦し、耶律乙辛に陥れられた者の官爵を回復させた。
治世と最期
1112年の頭魚宴で、女直の酋長たちが順に舞うなか、阿骨打だけは舞えないと断り続けた。天祚帝は枢密使の蕭奉先に、阿骨打は後患になるので誅すべきだと密かに語ったが、蕭奉先は粗野な者を殺せば帰順の心を傷つけると答えた。1114年、阿骨打は女直諸部の兵を集めて寧江州を攻め、出河店では遼の都統蕭嗣先の軍が奇襲を受けて潰走した。蕭奉先は潰走した兵の大赦を奏請し、天祚帝は従って、蕭嗣先は免官にとどめた。1122年、金の攻撃で中京が陥ち、天祚帝は居庸関を出た。蕭奉先の進言で晋王に死を賜い、人心は離れた。天祚帝が夾山に入ると、李処温・耶律大石らは秦晋国王の耶律淳を立て、耶律淳は天錫皇帝を称して天祚帝を湘陰王に降封した。1125年、天祚帝は応州の東で金の完顔婁室らに捕らえられ、海浜王に降封された。本紀は、天祚帝は病で終わったと記し、年五十四・在位二十四年とするが、没年の西暦は書かない。在位二十四年は、捕らえられた1125年までに当たる。
在位中の出来事(30件)
改元1101年3月2日元号を「乾統」とする
大赦1101年3月2日寿昌7年正月甲戌に道宗崩御に伴い即位、翌月壬辰朔に乾統と改元すると同時に大赦を実施。
被反乱1102年〜1103年蕭海里の乱
被反乱1102年阻卜の侵攻(乾統2年)
大赦1103年
大赦1106年丙申に柴冊礼を行った後、戊戌に大赦。
改元1111年元号を「天慶」とする
被反乱1113年李弘の乱
親征1115年金(女直・完顔阿骨打)
被反乱1115年耶律章奴の反乱(魏国王淳擁立謀反)
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被反乱1115年〜1116年耶律張家奴の反乱
親征1116年国内反乱者・耶律張家奴
被反乱1116年春州渤海の反乱
被反乱1116年烏古部の反乱
被反乱1116年高永昌の東京僭称
被反乱1117年董龐児の乱
被反乱1118年安生児・張高児・霍六哥の乱
被反乱1119年阻卜補疏只の反乱
改元1121年元号を「保大」とする
大赦1121年
親征1122年金
被反乱1122年〜1123年耶律淳(北遼)擁立・僭称事件
被反乱1122年敵烈部皮室の反乱(7月)
被反乱1122年敵烈部の反乱(9月)
被反乱1123年回離保の僭称
被反乱1123年梁王雅里擁立事件
被反乱1123年上京の盧彦倫の反乱
親征1124年金
被反乱1124年従駕者の兵乱
立后日付不詳皇后蕭氏(小字奪里懶、宰相蕭継先の五世孫)。