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遼(りょう)第2代分裂期の王朝

太宗(たいそう)耶律(やりつ)徳光(とくこう)

在位 927年12月11日〜947年5月15日(19年160日)

契丹名耶律堯骨(やりつぎょうこつ)字徳謹(とくきん)幼名堯骨(ぎょうこつ)

太宗の人物データ

生年
902年
在位
  • 927年12月11日〜947年5月15日
在位 19年160日26歳で即位(数え年)・長さは365名中58位
没年
947年5月15日46歳(数え年)267名中長寿順99位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
擁立
先代
  • 太祖遼太宗は太祖の子
次代
  • 世宗遼世宗は太宗の甥
目立つ記録
  • 親征6回(109名中6位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
遼史 巻四(太宗紀下)
即位経路
遼史 巻三(太宗紀上)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

太宗(たいそう)は耶律(やりつ)徳光(とくこう)で、太祖(たいそ)の第二子である。927年に即位した。936年に石敬瑭(せきけいとう)を晋(しん)の皇帝に冊(さく)し、947年に汴(べん)で国号を大遼(だいりょう)と建て、帰途に没した。

即位まで

遼史(りょうし)は、徳光(とくこう)の母は淳欽皇后(じゅんきんこうごう)蕭氏(しょうし)で、922年に天下兵馬大元帥を授けられたと記す。人皇王(じんこうおう)の耶律(やりつ)倍(ばい)は同じ母の長子で、徳光(とくこう)の兄にあたる。太祖(たいそ)が崩じると皇后が軍国の事を摂し、翌年、耶律(やりつ)倍(ばい)が群臣を率いて、皇子の大元帥が継ぐべきだと皇后に請い、皇后は従った。義宗(ぎそう)倍伝は、耶律(やりつ)倍(ばい)が皇太后の意向を知って位を譲ったと記し、淳欽皇后(じゅんきんこうごう)伝も、太祖(たいそ)が太宗(たいそう)は家を興すと言い、后が倍に太宗(たいそう)を避けさせようとしたと記す。太宗本紀(たいそうほんぎ)には李(り)胡(こ)の件も倍の察しも無く、耶律(やりつ)倍(ばい)の請願と后の承諾だけが書かれている。

治世と最期

936年、太宗(たいそう)は、李従珂(りじゅうか)は君を弑(しい)して自立したので天誅(てんちゅう)を行うべきだと皇太后に告げ、出兵して石敬瑭(せきけいとう)を大晋皇帝(だいしんこうてい)に冊(さく)した。資治通鑑(しじつがん)は、石敬瑭(せきけいとう)が臣と称して父礼(ふれい)で仕え、勝利の日に雁門(がんもん)関以北の諸州を割くと約束したと記す。遼史(りょうし)の太宗本紀(たいそうほんぎ)は、936年の条には割譲の約束を書かず、938年の条に、晋(しん)が十六州を図籍(とせき)とともに献じたと記す。945年、白団衛村(はくだんえいそん)で晋軍(しんぐん)を囲んだが、大風のなか反撃を受け、太宗(たいそう)は奚車(けいしゃ)で十余里退き、橐駝(たくだ)に乗って帰った。946年に自ら南伐(なんばつ)し、その年の暮れ(西暦では翌年初め)に杜重威(とちょうい)らが二十万の衆を率いて降り、晋帝(しんてい)の石重貴(せきじゅうき)は負義侯(ふぎこう)に降されて黄龍府(こうりゅうふ)に送られた。947年、太宗(たいそう)は汴(べん)で国号を大遼(だいりょう)と建て、大赦して大同と改元(かいげん)した。遼史(りょうし)は、太宗(たいそう)が高邑(こうゆう)で不豫(ふよ)となり、欒城(らんじょう)で崩じたと記す。資治通鑑(しじつがん)は、殺胡林(さつこりん)で卒し、国人が腹を割いて塩を詰めて北へ運び、晋人(しんじん)が帝羓(ていは)と呼んだと記すが、遼史(りょうし)の太宗本紀(たいそうほんぎ)にはその記述が無い。

在位中の出来事(14件)

大赦927年12月21日天顕2年11月壬申、即位に伴う大赦。
立后927年12月29日
親征928年後唐(李嗣源)
親征934年〜935年後唐(雲州・武州方面)
親征936年〜937年後唐→石敬瑭擁立(後晋建国)
改元938年元号を「会同」とする
大赦938年
被反乱941年〜942年趙崇(振武軍節度副使)の朔州反乱
被反乱941年〜942年吐谷渾夷離菫蘇の反乱(叛入晋)
親征944年後晋(第一次南伐)
残り4件を表示
親征945年後晋(第二次南伐)
親征946年〜947年後晋(第三次南伐・滅亡)
改元947年2月24日元号を「大同」とする
大赦947年2月24日

遼の歴代皇帝

9名の一覧

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