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遼(りょう)第5代分裂期の王朝

景宗(けいそう)耶律(やりつ)賢(けん)

在位 969年3月12日〜982年10月13日(13年218日)

契丹名耶律明扆(やりつめいい)字賢寧(けんねい)幼名明扆(めいい)

景宗の人物データ

生年
不詳
在位
  • 969年3月12日〜982年10月13日
在位 13年218日22歳で即位(数え年)・長さは365名中98位
没年
982年10月13日35歳(数え年)267名中長寿順163位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
擁立
先代
次代
  • 聖宗遼聖宗は景宗の子

出典(死因・即位経路)

死因
遼史 巻九(景宗紀下)
即位経路
遼史 巻八(景宗紀上)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

穆宗(ぼくそう)が近侍に殺されたあとに即位した遼(りょう)の皇帝で、高梁河(こうりょうが)で宋(そう)の太宗(たいそう)の軍を大破し、死に際して軍国の大事を皇后に委ねた。遼史(りょうし)の賛(さん)は、人を用いて疑わず賞罰を明らかにしたが、国力を傾けて北漢(ほくかん)を助けても滅亡を救えなかったと評する。

即位まで

世宗(せいそう)の第二子で、母は懐節皇后(かいせつこうごう)蕭氏(しょうし)である。951年の察割(さつかつ)の乱のときは4歳で、即位した穆宗(ぼくそう)に宮中で養われた。穆宗(ぼくそう)が酒に溺れるなか、韓匡嗣(きょうし)と時事を語ったところを耶律(やりつ)賢適(けんてき)に止められ、それ以上は口にしなかった。969年、穆宗(ぼくそう)は狩りの帰りに酔って行宮へ戻った夜、近侍ら6人に殺された。景宗(けいそう)は蕭(しょう)思温(しおん)らと甲騎(こうき)千人を率いて駆けつけ、夜明けに着いて哭(こく)し、群臣の勧めで柩(ひつぎ)の前に即位して保寧(ほねい)と改元(かいげん)した。同じ年に、蕭(しょう)思温(しおん)の娘の蕭(しょう)綽(しゃく)を皇后に立てた。

治世と最期

976年には史館(しかん)に、皇后の言葉も朕(ちん)・予と書くよう定めた。979年、北漢(ほくかん)を滅ぼした宋(そう)軍が南京(なんきん)を囲むと、耶律(やりつ)休哥(きゅうか)と耶律(やりつ)斜軫(しゃしん)が横から撃って大破し、宋(そう)の太宗(たいそう)は身一つで逃れて驢車(ろしゃ)で去った。980年には自ら南へ攻めて瓦橋関(がきょうかん)を囲み、耶律(やりつ)休哥(きゅうか)が宋(そう)軍を破った。982年にも自ら南へ兵を出したが満城で不利となり、守太尉(しゅたいい)の奚(けい)瓦里(がり)が流れ矢で死んだ。同じ年、狩りの最中に病み、焦山(しょうざん)の行在で没した。遺詔(いしょう)で梁王(りょうおう)の隆緒(りゅうしょ)に位を継がせ、軍国の大事は皇后の命を聴けとした。契丹(きったん)国志(こくし)は、景宗(けいそう)は即位すると風疾を患って朝に出ないことが多く、刑賞(けいしょう)や用兵はみな皇后が決めたとし、病は幼いころ乱の中で薪の山に隠されたのが始まりだと記す。遼史(りょうし)には、在位中の持病や皇后が政を決めたという記述は無い。契丹(きったん)国志(こくし)は、母や兄弟の順、即位の年、在位の年数でも遼史(りょうし)と食い違う。

在位中の出来事(9件)

改元969年3月12日元号を「保寧」とする
大赦969年3月12日応暦十九年二月己巳、穆宗遇弑後、群臣の勧進により柩前で即位。
立后969年5月20日
改元979年元号を「乾亨」とする
大赦979年
親征日付不詳宋(瓦橋関の役)
親征日付不詳宋(満城の役)
被反乱日付不詳燕頗の乱(黄龍府)
被反乱日付不詳上京漢軍の乱(喜隐擁立未遂)

遼の歴代皇帝

9名の一覧

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