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遼(りょう)第6代分裂期の王朝

聖宗(せいそう)耶律隆緒(やりつりゅうしょ)

在位 982年10月14日〜1031年6月25日(48年266日)

契丹名耶律文殊奴(やりつぶんしゅど)幼名文殊奴(もんじゅど)

聖宗の人物データ

生年
971年
在位
  • 982年10月14日〜1031年6月25日
在位 48年266日12歳で即位(数え年)・長さは365名中6位
没年
1031年6月25日61歳(数え年)267名中長寿順33位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
  • 景宗遼聖宗は景宗の子
次代
  • 興宗遼興宗は聖宗の子
目立つ記録
  • 親征6回(109名中6位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
遼史 巻十七(聖宗紀八)
即位経路
遼史 巻十(聖宗紀一)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

母の承天太后(しょうてんたいこう)の摂政のもとで宋(そう)と戦い、澶淵(せんえん)の盟で毎年の歳幣(さいへい)を約させた遼(りょう)の皇帝である。遼史(りょうし)の賛(さん)は、遼(りょう)の諸帝のうち在位が長く名声が尽きないのは聖宗(せいそう)だけだと評している。

即位まで

景宗(けいそう)の長子で、母は睿智皇后(えいちこうごう)蕭氏(しょうし)(承天太后(しょうてんたいこう))である。982年に景宗(けいそう)が没すると翌日に柩(ひつぎ)の前で即位し、皇后が遺詔(いしょう)によって摂政となった。遼史(りょうし)の后妃伝(こうひでん)によれば、太后は母は寡婦で子は幼く一族は強いと泣き、耶律(やりつ)斜軫(しゃしん)・韓徳譲(とくじょう)と大政を決め、南の守りを耶律(やりつ)休哥(きゅうか)に任せた。太后の父を遼史(りょうし)は蕭(しょう)思温(しおん)とし、契丹(きったん)国志(こくし)は蕭(しょう)守興(しゅこう)としたうえで思温(しおん)とする説も並べる。

治世と最期

986年に宋(そう)が三方から北伐(ほくばつ)すると、遼(りょう)軍は岐溝関(きこうかん)で曹彬(ひん)・米信の軍を大破した。1004年には南へ攻め込み、翌年の初めに澶淵(せんえん)に迫ったところで、統軍(とうぐん)の蕭(しょう)撻凛(たつりん)が伏せた弩に当たって死んだ。まもなく宋(そう)が和を請い、太后を叔母とし、毎年銀10万両・絹20万匹を送ると約して盟が成り、その年の暮れから歳幣(さいへい)が届くようになった。后妃伝(こうひでん)は、太后がこの戦いで自ら戎車(じゅうしゃ)に乗って三軍(さんぐん)を指揮したと書く。1009年に太后が没した。遼史(りょうし)の本紀(ほんぎ)は太后が政治を返したという記事を載せないが、契丹(きったん)国志(こくし)は、韓徳譲(とくじょう)が太后の寵(ちょう)を受けて権力を握り、太后は政治を帝に返して1か月たたずに没したと書く。1010年には、高麗の康肇(ちょう)が主君を殺したことを理由に自ら高麗を攻め、翌年の初めに開京(かいけい)を焼いて引き返した。1031年に病み、行宮で没した。

在位中の出来事(27件)

大赦982年11月
改元983年元号を「統和」とする
大赦983年
立后986年統和四年九月辛巳、皇后萧氏(のちの斉天皇后、萧菩薩哥)を納れる(立后)。
親征986年〜987年宋(雍熙北伐への反撃・南進)
親征988年〜989年宋(南伐)
被反乱993年〜995年兀惹烏昭度の乱
被反乱995年阿魯敦の乱
被反乱997年敵烈八部の乱(一次)
親征999年〜1000年宋(南伐)
残り17件を表示
立后1001年統和十九年五月丙戌、萧氏を斉天皇后として冊立。
親征1001年宋(南伐)
親征1004年〜1005年宋(澶淵の盟)
大赦1006年
親征1010年〜1011年高麗
改元1012年元号を「開泰」とする
大赦1012年
被反乱1012年〜1013年開泰元-二年西北辺境諸部反乱(阿里底ら)
被反乱1014年〜1015年烏古の乱(開泰三-四年)
被反乱1014年敵烈八部の乱(二次)
被反乱1015年于厥の乱
大赦1017年
改元1021年元号を「太平」とする
大赦1021年
被反乱1026年〜1027年太平六-七年阻卜諸部反乱
被反乱1029年〜1030年大延琳の乱(興遼国)
被反乱日付不詳阻卜鹘碾の乱

遼の歴代皇帝

9名の一覧

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