遼第4代分裂期の王朝
穆宗耶律璟
在位 951年10月11日〜969年3月12日(17年157日)
契丹名耶律述律幼名述律
穆宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 遼史 巻七(穆宗紀下)
- 即位経路
- 遼史 巻六(穆宗紀上)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
穆宗は耶律璟で、太宗の長子である。951年に従兄の世宗が弑されたあとに即位し、969年に近侍に弑された。
即位まで
遼史は、穆宗の母を靖安皇后蕭氏とし、939年に寿安王に封ぜられたと記す。951年、世宗は祭祀の宴で酔ったところを察割に反かれて弑された。穆宗本紀は、察割らが誅されたあとに穆宗が即位し、群臣が天順皇帝の尊号を上って応暦と改元したと記す。耶律屋質伝は、屋質が寿安王を迎えさせ、王がなお迷うと、大王は太宗の子で、賊がこれを得れば容れまいと説いたと記す。資治通鑑は、諸部が斉王述律を奉じて述軋らを攻め殺し、述律を帝に立てたと記す。穆宗本紀に屋質の説得は書かれていない。
治世と最期
957年、女巫の肖古が延年の薬に男子の胆を用いると上ったが、数年のうちに人を多く殺したため、穆宗は妄だと覚って射殺した。959年、後周が益津・瓦橋・淤口の三関を取り、瀛・莫の二州を陥れた。遼史は、963年以降の穆宗が近侍や鹿人を次々に殺したと記す。969年、穆宗は懐州で熊を獲り、酔うまで飲んで行宮に戻った夜、近侍の小哥や庖人の辛古ら六人に弑された。蕭思温伝は庖人を斯奴古と記し、景宗が柩の前で即位して保寧と改元したと本紀は記す。新五代史は、穆宗が夜から朝まで飲んで昼は寝るので、国人が睡王と呼んだと記す。遼史にこの語は無い。
在位中の出来事(3件)
改元951年10月11日元号を「応暦」とする
被反乱964年〜965年黄室韦(大黄室韦・小黄室韦)の乱
被反乱965年〜967年烏古の乱