遼第1代分裂期の王朝
太祖耶律阿保機
在位 916年3月17日〜926年9月6日(10年175日)
太祖の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 遼史 巻二(太祖紀下)
- 即位経路
- 遼史 巻一(太祖紀上)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
耶律阿保機は契丹迭剌部の人で、徳祖皇帝の長子である。契丹の可汗の位を受けて立ち、のち皇帝を称して遼の基を開いた。
即位まで
遼史は、阿保機が于越に拝せられて軍国の事を総知し、痕徳菫可汗が殂すと、群臣が遺命として阿保機を立てることを請い、阿保機は三たび辞して従ったと記す。新五代史は、遥輦が任に堪えないとして八部が阿保機を選んで代わらせたと記し、遼史とは経緯が違う。同書によれば、阿保機は九年後に交代を迫られていったん旗鼓を渡したが、のちに諸部の大人を殺して立ち、二度と代わらなかった。遼史は、907年に壇を設けて皇帝の位に即いたと記し、916年にも、群臣と属国が大聖大明天皇帝の号を上り、神冊と建元したと記す。資治通鑑は、916年の条に皇帝を自称して神冊と改元したと記し、新五代史は、年号を天賛とし、神冊には触れない。
治世と最期
遼史は、阿保機の弟の剌葛・迭剌・寅底石・安端が911年に謀反したが、阿保機は誅さず、天地に誓って赦したと記す。天賛四年の末、阿保機は、渤海の世仇がまだ雪がれていないと詔し、渤海の大諲譔を征する兵を挙げた。926年、渤海王は忽汗城で降り、渤海国は東丹と改められて、皇太子の耶律倍が人皇王に冊されてこれを治めた。資治通鑑と旧五代史は、924年に契丹が渤海を攻めたと記すが、遼史のその年の条は渤海が遼の刺史を殺して民を掠めたことを記すだけで、契丹からの渤海攻撃は書かず、西方征討を記す。遼史は、926年、阿保機が扶余府で不豫となって崩じたと記すが、病名は書かない。旧五代史は、契丹が使者を送って国主の卒を告げたと記す。
在位中の出来事(17件)
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遼の歴代皇帝
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