遼第8代分裂期の王朝
道宗耶律洪基
在位 1055年8月28日〜1101年2月12日(45年180日)
契丹名耶律査剌字涅隣幼名査剌
道宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 遼史(道宗紀)
- 即位経路
- 遼史 巻二十一(道宗紀一)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
叔父の重元の反乱を退けたのち、寵臣の耶律乙辛が関わった誣告によって皇后と皇太子を失った遼の皇帝である。遼史の賛は、即位当初の治績を認めつつ、讒言と告発が横行して骨肉を損ない、国の基を危うくしたと評する。
即位まで
興宗の長子で、母は仁懿皇后蕭氏である。天下兵馬大元帥として朝政に加わり、1055年に興宗が没すると柩の前で即位した。
治世と最期
1063年、皇太叔の重元が子の涅魯古らと行宮を襲ったが、涅魯古は射殺され、重元は逃れて自殺した。遼史の重元伝は、乱を涅魯古が長く企てていたものとし、重元は息子のせいでこうなったと嘆いて死んだと書く。遼史の后妃伝は仁懿皇太后が自ら衛士を率いて逆党を破ったと書き、契丹国志は道宗の皇后が兵を率いたとして、帝が腕を射られて傷ついたという遼史に無い話も載せる。乱の後に権勢をふるった耶律乙辛は、1075年、宮婢らが偽って訴えた皇后と伶人の密通を上奏し、皇后は自尽を命じられた。1077年には乙辛の誣告で皇太子が庶人に落とされて上京に囚われ、乙辛の差し向けた者に殺されたが、上京の留守は病死と偽って報告した。1083年に皇太子は昭懐太子と諡を贈られ、乙辛は宋へ逃れようとした罪で誅された。1101年に行宮で没し、遺詔によって皇太子の子の延禧が跡を継いだ。
在位中の出来事(23件)
改元1055年9月9日元号を「清寧」とする
大赦1055年9月9日重熙24年(清寧元年)八月辛丑、興宗崩御・即位(八月己丑)から12日後に改元清寧と同時に大赦。
立后1055年12月清寧元年12月戊子、応聖節(太皇太后の寿を祝う節)にあたり妃萧氏を皇后に冊立。
大赦1056年
大赦1058年清寧4年3月甲午、肆赦(大赦と同義の全国規模恩赦)。
大赦1058年清寧4年11月庚辰、再生礼・柴册礼・大册礼を受けた際に大赦。
被反乱1063年重元の乱(皇太叔重元・涅魯古の謀反)
改元1065年元号を「咸雍」とする
大赦1065年咸雍元年正月辛酉朔、尊号加上・改元咸雍と同時に大赦。
被反乱1069年阻卜の反乱(咸雍五年)
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被反乱1069年五国剖阿里部の反乱(咸雍五年)
大赦1072年咸雍8年12月丁丑、坤宁節(皇太后の誕生節)にあたり大赦。
改元1075年元号を「大康」とする
大赦1075年咸雍10年12月辛巳、翌年を大康元年とする改元の布告と同時に大赦。
大赦1076年大康2年3月丁卯、皇太后(仁懿皇后)崩御の直後に大赦。
立后1076年大康2年8月丁未、先の皇后(萧氏、大康元年11月に賜死)に代わり新たに萧氏を皇后に冊立。
皇太子廃立1077年大康3年6月丙戌、耶律乙辛らの誣告に基づく鞫治の末、皇太子(耶律浚)を廃して庶人とし上京に幽閉。
大赦1083年大康9年11月丙午、梁王延禧(皇孫)を燕国王に進封したのに伴い大赦。
改元1085年元号を「大安」とする
大赦1089年大安5年11月丁卯朔、燕国王延禧に子が生まれたことを機に大赦。
被反乱1092年〜1100年阻卜諸部の反乱(磨古斯の乱)
大赦1093年大安9年(10月)己未、燕国王延禧に子が生まれたことを機に肆赦(大赦と同義)。
改元1095年元号を「寿昌」とする