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遼(りょう)第7代分裂期の王朝

興宗(こうそう)耶律(やりつ)宗真(そうしん)

在位 1031年6月25日〜1055年8月28日(24年70日)

契丹名耶律只骨(やりつしこつ)字夷不堇(いふきん)幼名只骨(しこつ)

興宗の人物データ

生年
不詳
在位
  • 1031年6月25日〜1055年8月28日
在位 24年70日16歳で即位(数え年)・長さは365名中41位
没年
1055年8月28日40歳(数え年)267名中長寿順130位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
世襲
先代
  • 聖宗遼興宗は聖宗の子
次代
  • 道宗遼道宗は興宗の子

出典(死因・即位経路)

死因
遼史(興宗紀)
即位経路
遼史 巻十八(興宗紀一)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

興宗(こうそう)(耶律(やりつ)宗真(そうしん))は遼(りょう)の聖宗(せいそう)の長子で、即位後しばらくは生母の太后が政を握り、親政ののちは宋(そう)から歳幣(さいへい)の増額を引き出し、1044年と1049年に西夏(せいか)へ親征(しんせい)した。

即位まで

生母は欽哀皇后(きんあいこうごう)の蕭氏(しょうし)だが、生まれるとすぐ聖宗(せいそう)の斉天皇后(せいてんこうごう)が引き取って育てた。契丹(きったん)国志(こくし)は聖宗(せいそう)の第八子とする。1021年に皇太子に立てられ、1031年に聖宗(せいそう)が崩じると柩(ひつぎ)の前で即位し、本紀(ほんぎ)は生母を皇太后に尊んだと記すが、后妃伝(こうひでん)は生母が自ら皇太后に立ったと書く。

治世と最期

皇太后は即位の年のうちに斉天皇后(せいてんこうごう)を上京へ移し、宗真(そうしん)が育ての親だと反対しても聞かず、翌年に人を遣って殺させた。その間、政は皇太后が聴き、宗真(そうしん)は自ら庶務を執らなかった。1034年に宗真(そうしん)が親政を始めた経緯を、遼史(りょうし)の本紀(ほんぎ)は太后が政を返したとし、后妃伝(こうひでん)は太后が末子の重元(ちょうげん)を立てようとした謀を重元(ちょうげん)自身が告げたため宗真(そうしん)が太后を慶州(けいしゅう)へ遷したとし、契丹(きったん)国志(こくし)は宗真(そうしん)が兵を率いて母を逐ったとする。1042年、宋(そう)が国境に壕(ほり)を掘ると聞いて関南(かんなん)十県の返還を求め、宋(そう)の富弼(ひつ)に説かれて和を結び、銀と絹を各十万増やさせた。このとき宋(そう)の文書の文言を、遼史(りょうし)の本紀(ほんぎ)は貢とし、宋史(そうし)の富弼(ひつ)伝は納の字を与えたとする。1044年に西夏(せいか)へ親征(しんせい)し、李元昊(りげんこう)が罪に服したのちも攻めて数千人を殺したが、蕭(しょう)恵伝によれば大風で軍が乱れて多くの死者を出し、兵を返した。遼史(りょうし)の伶官伝(れいかんでん)は、宗真(そうしん)が元昊(げんこう)に敗れて単騎で逃れ、危うく助からないところだったと記すが、本紀(ほんぎ)にこの敗走は無い。1049年にも親征(しんせい)して黄河(こうが)を渡ったが、夏人が退いたので引き返した。1055年、秋山(しゅうざん)へ向かう途中で病み、燕趙国王(えんちょうこくおう)の洪基(こうき)を召して治国の要を諭し、行宮で崩じた。契丹(きったん)国志(こくし)は享年を一つ多く四十一とし、崩じた年を重熙(ちょうき)の年数で一つ少なく記す。

在位中の出来事(17件)

改元1031年7月7日元号を「景福」とする
大赦1031年7月7日即位年、景福改元と同日の大赦。
改元1032年元号を「重熙」とする
大赦1032年重熙改元と同日の大赦。
大赦1035年重熙四年十一月乙酉、白嶺で柴冊礼を行った際の大赦。
立后1035年重熙四年三月一日(乙酉朔)、蕭氏を皇后に冊立。
大赦1039年重熙八年十一月戊申、皇太后が再生礼を行った際の大赦。
大赦1040年重熙九年三月辛未、応聖節(皇太后誕生日)に際しての大赦。
大赦1041年重熙十年十月壬辰、皇子胡盧斡里誕生に際しての肆赦(大赦に相当)。
大赦1043年重熙十一年十一月丁亥、群臣が皇帝尊号を上呈し皇后蕭氏を冊立した際の太赦(大赦に相当)。
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親征1044年西夏(李元昊)
被反乱1044年山西部族節度使屈烈の西夏投奔(党項系五部離反)
大赦1047年重熙十六年四月丁卯、皇太后の病が癒えたことによる肆赦(大赦に相当)。
親征1049年西夏(李諒祚)
大赦1052年重熙二十年十二月乙酉、皇太后が再生礼を行った際の肆赦(大赦に相当)。
大赦1054年重熙二十三年十一月壬申、皇太后への尊号上呈に際しての大赦。
大赦1055年8月27日重熙二十四年八月戊子、崩御前日の大赦。

遼の歴代皇帝

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