遼第7代分裂期の王朝
興宗耶律宗真
在位 1031年6月25日〜1055年8月28日(24年70日)
興宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 遼史(興宗紀)
- 即位経路
- 遼史 巻十八(興宗紀一)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
興宗(耶律宗真)は遼の聖宗の長子で、即位後しばらくは生母の太后が政を握り、親政ののちは宋から歳幣の増額を引き出し、1044年と1049年に西夏へ親征した。
即位まで
生母は欽哀皇后の蕭氏だが、生まれるとすぐ聖宗の斉天皇后が引き取って育てた。契丹国志は聖宗の第八子とする。1021年に皇太子に立てられ、1031年に聖宗が崩じると柩の前で即位し、本紀は生母を皇太后に尊んだと記すが、后妃伝は生母が自ら皇太后に立ったと書く。
治世と最期
皇太后は即位の年のうちに斉天皇后を上京へ移し、宗真が育ての親だと反対しても聞かず、翌年に人を遣って殺させた。その間、政は皇太后が聴き、宗真は自ら庶務を執らなかった。1034年に宗真が親政を始めた経緯を、遼史の本紀は太后が政を返したとし、后妃伝は太后が末子の重元を立てようとした謀を重元自身が告げたため宗真が太后を慶州へ遷したとし、契丹国志は宗真が兵を率いて母を逐ったとする。1042年、宋が国境に壕を掘ると聞いて関南十県の返還を求め、宋の富弼に説かれて和を結び、銀と絹を各十万増やさせた。このとき宋の文書の文言を、遼史の本紀は貢とし、宋史の富弼伝は納の字を与えたとする。1044年に西夏へ親征し、李元昊が罪に服したのちも攻めて数千人を殺したが、蕭恵伝によれば大風で軍が乱れて多くの死者を出し、兵を返した。遼史の伶官伝は、宗真が元昊に敗れて単騎で逃れ、危うく助からないところだったと記すが、本紀にこの敗走は無い。1049年にも親征して黄河を渡ったが、夏人が退いたので引き返した。1055年、秋山へ向かう途中で病み、燕趙国王の洪基を召して治国の要を諭し、行宮で崩じた。契丹国志は享年を一つ多く四十一とし、崩じた年を重熙の年数で一つ少なく記す。