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北漢(ほくかん)(五代十国(ごだいじっこく))第4代分裂期の王朝

英武帝(えいぶてい)劉継元(りゅうけいげん)

在位 968年10月〜979年6月3日(10年247日)

姓劉(りゅう)諱継元(けいげん)

英武帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 968年10月〜979年6月3日
在位 10年247日長さは365名中128位
没年
992年1月25日
死因
病死365名中167名
即位経路
擁立
先代
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
宋史 巻482(北漢劉継元伝)/十国春秋 巻105(北漢二・英武帝本紀)
即位経路
十国春秋 巻105(北漢二・少主本紀末尾)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

北漢(ほくかん)の最後の皇帝で、宋(そう)の太宗(たいそう)の親征(しんせい)を受けて太原(たいげん)で降り、宋(そう)で余生を送った。

即位まで

母は北漢(ほくかん)を建てた劉旻(りゅうびん)の娘で、何氏(かし)に再嫁して劉継元(りゅうけいげん)を生んだ。両親の死後、子の無い劉(りゅう)承鈞(しょうきん)の養子となった。968年、侯霸栄(はえい)が兄の劉継恩(りゅうけいおん)を刺し殺すと、郭無為(むい)が侯霸栄(はえい)を殺して劉継元(りゅうけいげん)を立てた。十国春秋(じっこくしゅんじゅう)によれば、張昭敏(しょうびん)は劉旻(りゅうびん)の嫡孫(ちゃくそん)の劉(りゅう)継文(けいぶん)を推したが、郭無為(むい)は劉継元(りゅうけいげん)のほうが御しやすいとして退けた。新五代史(しんごだいし)は即位してすぐ広運(こううん)と改元(かいげん)したとし、十国春秋(じっこくしゅんじゅう)の論はこれを誤りとする。

治世と最期

新五代史(しんごだいし)によれば、劉継元(りゅうけいげん)は叔父たちを殺し、養母の郭氏(かくし)も絞め殺させて、劉氏(りゅうし)の子孫は絶えた。969年、宋(そう)の太祖(たいそ)が親征(しんせい)して汾水(ふんすい)をせき止め、太原城(たいげんじょう)に水を注いだ。宦官(かんがん)の衛徳貴(とくき)が郭無為(むい)に異心があると告げると、劉継元(りゅうけいげん)は郭無為(むい)を絞め殺させた。979年、宋(そう)の太宗(たいそう)の親征(しんせい)で太原(たいげん)を攻められ、夜に使者を送って降伏を申し入れ、翌日に降って北漢(ほくかん)は滅んだ。降伏を勧めたのを新五代史(しんごだいし)は馬峰とし、宋史(そうし)の楊(よう)業伝は楊(よう)業とする。遼史(りょうし)は降伏を宋(そう)の書よりひと月遅く書く。宋(そう)では右衛上将軍(ゆうえいじょうしょうぐん)・彭城(ほうじょう)郡公(ぐんこう)とされた。病むと太宗(たいそう)は医者を送り、劉継元(りゅうけいげん)は幼い子を託す遺奏(いそう)を残して、992年の初めに没した。没後に彭城郡王(ほうじょうぐんおう)を追封(ついほう)された。

在位中の出来事(3件)

改元日付不詳元号を「広運」とする
立后日付不詳
立后日付不詳

北漢の歴代皇帝

4名の一覧

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