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北漢(ほくかん)(五代十国(ごだいじっこく))第1代分裂期の王朝

世祖(せいそ)劉崇(りゅうすう)

在位 951年2月24日〜954年12月(3年281日)

姓劉(りゅう)諱崇(すう)別名劉旻(りゅうびん)

世祖の人物データ

生年
895年
在位
  • 951年2月24日〜954年12月
在位 3年281日57歳で即位(数え年)・長さは365名中204位
没年
954年12月60歳(数え年)267名中長寿順39位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
—
次代
  • 睿宗北漢睿宗は世祖の子

出典(死因・即位経路)

死因
新五代史 巻70(東漢世家)/十国春秋 巻104(北漢一・世祖本紀)
即位経路
十国春秋 巻104(北漢一・世祖本紀)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

後漢(ごかん)が郭威(かくい)に倒されたあと、太原(たいげん)で即位して北漢(ほくかん)を建てた皇帝で、遼(りょう)に甥(おい)として仕え、高平(こうへい)で後周(こうしゅう)世宗(せいそう)に大敗した。新五代史(しんごだいし)は後漢(ごかん)高祖(こうそ)の同母弟とするが、十国春秋(じっこくしゅんじゅう)の注によれば、旧五代史(きゅうごだいし)は従弟、晋陽見聞要録(しんようけんぶんようろく)は仲弟(ちゅうてい)とする。

即位まで

950年に郭威(かくい)が魏(ぎ)から兵を起こし、後漢(ごかん)の隠帝(いんてい)が弑(しい)されると、劉崇(りゅうすう)は兵を挙げようとした。郭威(かくい)が太后に申して劉崇(りゅうすう)の子の劉(りゅう)贇(いん)を後嗣に立てると、劉崇(りゅうすう)は我が子が帝となったと喜んで兵を止め、出兵を勧めた太原少尹(たいげんしょういん)の李驤(りじょう)を斬った。951年、後周(こうしゅう)が宋州(そうしゅう)で劉(りゅう)贇(いん)を殺したその日に、劉崇(りゅうすう)は晋陽(しんよう)で即位した。

治世と最期

即位しても乾祐(けんゆう)の年号を使い続けて改元(かいげん)せず、宗廟(そうびょう)も立てずに家人の礼で祭った。遼(りょう)には宰相の鄭(てい)珙(きょう)を送って甥皇帝(せいこうてい)と称し、遼(りょう)から大漢(だいかん)神武皇帝(ぶこうてい)に冊立(さくりつ)された。遼(りょう)の援兵を得て晋州(しんしゅう)を攻めたが敗れ、大寒で兵の半ば以上を失った。954年、後周(こうしゅう)太祖(たいそ)の死を聞いて契丹(きったん)に兵を乞い、潞州(ろしゅう)を攻めた。高平(こうへい)の戦いでは、軽々しく動くなという契丹(きったん)の楊(よう)袞(こん)の諫(いさ)めを退けて大敗し、遼(りょう)から贈られた黄騮(こうりゅう)にひとり乗って間道から逃げ帰った。続いて後周(こうしゅう)世宗(せいそう)に太原(たいげん)を囲まれたが、世宗(せいそう)は落とせずに軍を返した。新五代史(しんごだいし)によれば、この包囲のさなかに代州(だいしゅう)の将の桑珪(けい)が後周(こうしゅう)に降った。十国春秋(じっこくしゅんじゅう)は、後周(こうしゅう)の撤退後も桑珪(けい)は代州(だいしゅう)に籠もり、劉崇(りゅうすう)が兵を出して攻め落としたと記す。新五代史(しんごだいし)は、敗戦と包囲の憂いから病を得て翌年に死んだとし、遼史(りょうし)も955年とする。資治通鑑(しじつがん)は北漢(ほくかん)の旧臣の記録に従って954年の冬とし、このサイトの没年もそれによる。

在位中の出来事(4件)

立后951年7月
親征951年11月〜952年1月後周(晋州)
親征954年3月〜954年7月後周(潞州・高平・太原)
被反乱954年6月代州の桑珪による離反・後周への投降

北漢の歴代皇帝

4名の一覧

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