北漢(五代十国)第1代分裂期の王朝
世祖劉崇
在位 951年2月24日〜954年12月(3年281日)
姓劉諱崇別名劉旻
世祖の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 新五代史 巻70(東漢世家)/十国春秋 巻104(北漢一・世祖本紀)
- 即位経路
- 十国春秋 巻104(北漢一・世祖本紀)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
後漢が郭威に倒されたあと、太原で即位して北漢を建てた皇帝で、遼に甥として仕え、高平で後周世宗に大敗した。新五代史は後漢高祖の同母弟とするが、十国春秋の注によれば、旧五代史は従弟、晋陽見聞要録は仲弟とする。
即位まで
950年に郭威が魏から兵を起こし、後漢の隠帝が弑されると、劉崇は兵を挙げようとした。郭威が太后に申して劉崇の子の劉贇を後嗣に立てると、劉崇は我が子が帝となったと喜んで兵を止め、出兵を勧めた太原少尹の李驤を斬った。951年、後周が宋州で劉贇を殺したその日に、劉崇は晋陽で即位した。
治世と最期
即位しても乾祐の年号を使い続けて改元せず、宗廟も立てずに家人の礼で祭った。遼には宰相の鄭珙を送って甥皇帝と称し、遼から大漢神武皇帝に冊立された。遼の援兵を得て晋州を攻めたが敗れ、大寒で兵の半ば以上を失った。954年、後周太祖の死を聞いて契丹に兵を乞い、潞州を攻めた。高平の戦いでは、軽々しく動くなという契丹の楊袞の諫めを退けて大敗し、遼から贈られた黄騮にひとり乗って間道から逃げ帰った。続いて後周世宗に太原を囲まれたが、世宗は落とせずに軍を返した。新五代史によれば、この包囲のさなかに代州の将の桑珪が後周に降った。十国春秋は、後周の撤退後も桑珪は代州に籠もり、劉崇が兵を出して攻め落としたと記す。新五代史は、敗戦と包囲の憂いから病を得て翌年に死んだとし、遼史も955年とする。資治通鑑は北漢の旧臣の記録に従って954年の冬とし、このサイトの没年もそれによる。
在位中の出来事(4件)
立后951年7月
親征951年11月〜952年1月後周(晋州)
親征954年3月〜954年7月後周(潞州・高平・太原)
被反乱954年6月代州の桑珪による離反・後周への投降
北漢の歴代皇帝
4名の一覧- 第1代世祖951–954年病死
- 第2代睿宗954–968年病死
- 第3代劉継恩968年暗殺
- 第4代英武帝968–979年病死