西夏第1代分裂期の王朝
景宗李元昊
在位 1038年11月10日〜1048年1月19日(9年72日)
タングート名嵬埋幼名嵬理
景宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 続資治通鑑長編 巻162(慶暦八年正月)/西夏書事 巻十八
- 即位経路
- 宋史 巻485(夏国伝上)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
李元昊は夏王李徳明の子で、1038年に壇を築いて皇帝の位に就き、国号を大夏とした。1048年、太子の寧令哥に襲われ、その傷がもとで没したと伝えられる。
即位まで
宋史の夏国伝は、徳明が三つの姓を娶り、衛慕氏が元昊を生んだと記す。徳明の卒を、宋史の夏国伝は1031年に置き、同じ宋史の仁宗本紀は1032年に延州が卒を報じたと記して、年が揃わない。徳明の子の元昊が嗣ぎ、定難軍節度使・西平王を授けられた。西夏書事は、冊封の使者に対し、元昊が、先王は大いに誤った、かかる国がありながら人に臣拝するのかと言ったと記す。
治世と最期
続資治通鑑長編は、1038年に趙元昊が壇を築いて受冊し、大夏の皇帝を僭称したと記す。宋史の夏国伝は、同じ年に元昊が壇を築いて受冊し、皇帝に即位したと記す。宋史の夏国伝は、1043年に元昊の使者が名を曩霄と改めたと称したが、臣とは称さなかったと記す。西夏書事は、1048年、没藏訛龐が寧令哥に弑逆を唆し、寧令哥が十五日に酔った元昊を宮中で刺したが、元昊は死ななかったと記す。続資治通鑑長編は、寧令哥が元昊の鼻を削いで去り、黄芦の訛厖の家に匿れて訛厖に殺され、元昊は鼻の疵が原因で死んだとする。宋史の夏国伝と仁宗本紀には、元昊が子に襲われた記述が無い。夏国伝は殂したと記し、本紀は卒を告げに来たと記すだけである。長編の注は、宋史が諒祚の小字を寧令哥とするのに対し、本編では寧令哥は別人で、諒祚は遺腹の子であるとし、どちらが正しいか不明と記す。
在位中の出来事(8件)
立后1038年11月皇帝即位(天授礼法延祚元年十月十一日)直後、太祖(李継遷)・太宗(李徳明)への追謚と合わせ、妃野利氏を憲成皇后に冊立。
改元1038年11月10日元号を「天授礼法延祚」とする
親征1040年宋(延州・三川口)
親征1041年宋(渭州・好水川)
親征1042年宋(鎮戎軍・定川寨)
親征1044年契丹(賀蘭山・河曲)
立后1047年皇太子寧令哥の妃として迎えられた没移氏の美貌を見た元昊(曩霄)が自らこれを娶り、『新皇后』と称して立后。
被反乱1048年1月寧令哥・野利一族による宮廷クーデター(弑逆)