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西夏(せいか)第1代分裂期の王朝

景宗(けいそう)李元昊(りげんこう)

在位 1038年11月10日〜1048年1月19日(9年72日)

タングート名嵬埋(かいまい)幼名嵬理(がいり)

景宗の人物データ

生年
不詳
在位
  • 1038年11月10日〜1048年1月19日
在位 9年72日30歳で即位(数え年)・長さは365名中139位
没年
1048年1月19日46歳(数え年)267名中長寿順99位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
継承(経緯記載なし)帝号を新たに称した
先代
  • 李徳明景宗は李徳明の子
次代
  • 毅宗西夏毅宗は景宗の子

出典(死因・即位経路)

死因
続資治通鑑長編 巻162(慶暦八年正月)/西夏書事 巻十八
即位経路
宋史 巻485(夏国伝上)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

李元昊(りげんこう)は夏王(かおう)李(り)徳明(とくめい)の子で、1038年に壇を築いて皇帝の位に就き、国号を大夏(たいか)とした。1048年、太子の寧令哥(ねいれいか)に襲われ、その傷がもとで没したと伝えられる。

即位まで

宋史(そうし)の夏国伝は、徳明(とくめい)が三つの姓を娶(めと)り、衛慕氏(えいぼし)が元昊(げんこう)を生んだと記す。徳明(とくめい)の卒を、宋史(そうし)の夏国伝は1031年に置き、同じ宋史(そうし)の仁宗本紀(じんそうほんぎ)は1032年に延州(えんしゅう)が卒を報じたと記して、年が揃(そろ)わない。徳明(とくめい)の子の元昊(げんこう)が嗣ぎ、定難軍(ていなんぐん)節度使(せつどし)・西平王(せいへいおう)を授けられた。西夏(せいか)書事(しょじ)は、冊封(さくほう)の使者に対し、元昊(げんこう)が、先王は大いに誤った、かかる国がありながら人に臣拝(しんぱい)するのかと言ったと記す。

治世と最期

続資治通鑑(しじつがん)長編(ちょうへん)は、1038年に趙(ちょう)元昊(げんこう)が壇を築いて受冊(じゅさく)し、大夏(たいか)の皇帝を僭称(せんしょう)したと記す。宋史(そうし)の夏国伝は、同じ年に元昊(げんこう)が壇を築いて受冊(じゅさく)し、皇帝に即位したと記す。宋史(そうし)の夏国伝は、1043年に元昊(げんこう)の使者が名を曩霄(のうしょう)と改めたと称したが、臣とは称さなかったと記す。西夏(せいか)書事(しょじ)は、1048年、没藏(ぼつぞう)訛龐(かぼう)が寧令哥(ねいれいか)に弑逆(しいぎゃく)を唆し、寧令哥(ねいれいか)が十五日に酔った元昊(げんこう)を宮中で刺したが、元昊(げんこう)は死ななかったと記す。続資治通鑑(しじつがん)長編(ちょうへん)は、寧令哥(ねいれいか)が元昊(げんこう)の鼻を削いで去り、黄芦(こうろ)の訛厖(かぼう)の家に匿れて訛厖(かぼう)に殺され、元昊(げんこう)は鼻の疵(きず)が原因で死んだとする。宋史(そうし)の夏国伝と仁宗本紀(じんそうほんぎ)には、元昊(げんこう)が子に襲われた記述が無い。夏国伝は殂(そ)したと記し、本紀(ほんぎ)は卒を告げに来たと記すだけである。長編(ちょうへん)の注は、宋史(そうし)が諒祚(りょうそ)の小字を寧令哥(ねいれいか)とするのに対し、本編では寧令哥(ねいれいか)は別人で、諒祚(りょうそ)は遺腹(いふく)の子であるとし、どちらが正しいか不明と記す。

在位中の出来事(8件)

立后1038年11月皇帝即位(天授礼法延祚元年十月十一日)直後、太祖(李継遷)・太宗(李徳明)への追謚と合わせ、妃野利氏を憲成皇后に冊立。
改元1038年11月10日元号を「天授礼法延祚」とする
親征1040年宋(延州・三川口)
親征1041年宋(渭州・好水川)
親征1042年宋(鎮戎軍・定川寨)
親征1044年契丹(賀蘭山・河曲)
立后1047年皇太子寧令哥の妃として迎えられた没移氏の美貌を見た元昊(曩霄)が自らこれを娶り、『新皇后』と称して立后。
被反乱1048年1月寧令哥・野利一族による宮廷クーデター(弑逆)

西夏の歴代皇帝

10名の一覧

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