西夏第6代分裂期の王朝
桓宗李純祐
在位 1193年10月16日〜1206年3月1日(12年155日)
姓李諱純祐
桓宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 西夏書事 卷三十九/宋史 夏國傳下/金史 列傳第七十二 西夏
- 即位経路
- 宋史 巻486
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
李純祐は夏の国主で、仁孝の子である。1193年に立ち、1206年に李安全に廃された。
即位まで
宋史は、純祐を仁孝の長子とし、母は章献欽慈皇后羅氏と記す。仁孝が没して純祐が即位し、翌年に天慶と改元したと宋史は記す。金史は、1193年に仁孝が薨じ、子の純祐が嗣いで立ったと記す。
治世と最期
西夏書事は、仁孝の族弟の越王仁友が没すると、その子の安全が父の爵を継ぐことを願い上表したが、純祐は許さず鎮夷郡王に封じたため、安全は怨みを抱いたと記す。西夏書事は、1205年にモンゴルが初めて夏に攻め入り、純祐はモンゴル軍が退くと被害を受けた城塞を修復し、興慶府を中興府と改めたと記す。1206年、安全が純祐の母の羅氏とともに純祐を廃して自立した。西夏書事と宋史は廃位を1206年の年初に置き、金史はそれより後に置く。西夏書事は、廃位ののち、純祐が廃所で暴卒したと記すが、死因も手を下した者も書かない。西夏書事の按は、宋史と金史に異辞は無いとしつつ、無罪で廃されて間もなく死んだのは弑と変わらないと評する。元史の太祖紀には、純祐の廃位も死も書かれていない。
在位中の出来事(3件)
被反乱1206年3月1日鎮夷郡王・李安全(後の襄宗)による廃位クーデター
改元日付不詳元号を「天慶」とする
大赦日付不詳