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西夏(せいか)第2代分裂期の王朝

毅宗(きそう)李(り)諒祚(りょうそ)

在位 1048年1月19日〜1068年1月27日(20年13日)

姓李(り)諱諒祚(りょうそ)

毅宗の人物データ

生年
1047年3月5日
在位
  • 1048年1月19日〜1068年1月27日
在位 20年13日2歳で即位(数え年)・長さは365名中56位
没年
1068年1月27日21歳(数え年)267名中長寿順228位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
擁立
先代
  • 景宗西夏毅宗は景宗の子
次代
  • 恵宗西夏恵宗は毅宗の子

出典(死因・即位経路)

死因
西夏書事 巻23付近/宋史 巻485
即位経路
宋史 巻485

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

生まれた翌年に西夏(せいか)の位に就き、母方の没蔵訛龐(ぼつぞうかぼう)に政を握られたが、のちに訛龐(かぼう)を討って自ら政を執り、漢の儀礼を採った皇帝である。

即位まで

景宗(けいそう)元昊(げんこう)の子で、母は没蔵氏(ぼつぞうし)であり、1047年に生まれた。西夏(せいか)書事(しょじ)によれば、没蔵訛龐(ぼつぞうかぼう)は毅宗(きそう)を立てるため元昊(げんこう)の子の寧令哥(ねいれいか)に父を刺させ、それを罪として寧令哥(ねいれいか)と母を殺したが、宋史(そうし)は寧令哥(ねいれいか)を毅宗(きそう)自身の幼名(ようめい)として記す。元昊(げんこう)の遺命は従弟を立てることだったが、訛龐(かぼう)がこれを退けて毅宗(きそう)を立て、自ら国相(こくしょう)となった。1048年に即位し、母方の訛龐(かぼう)のもとで育てられた。

治世と最期

1056年に母の没蔵太后(たいこう)が没したが、宋史(そうし)は死因を書かない。西夏(せいか)書事(しょじ)は、情人の李(り)守貴(しゅき)が恨みを抱いていたことを記したうえで、狩りの帰りに蕃騎(ばんき)に襲われて殺されたとし、続資治通鑑(しじつがん)長編(ちょうへん)は李(り)守貴(しゅき)が殺したと記したうえで、実録(じつろく)には別の伝えがあると注する。その後、訛龐(かぼう)は娘を毅宗(きそう)の妻とし、生殺を思いのままにした。1061年、訛龐(かぼう)が叛(そむ)くと告げる者があったのを機に訛龐(かぼう)を討ち、一族を滅ぼした。西夏(せいか)書事(しょじ)は、訛龐(かぼう)父子が寝室に兵を伏せて毅宗(きそう)を殺そうとしたのを、毅宗(きそう)と通じていた訛龐(かぼう)の子の妻の梁氏(りょうし)が知らせたとし、のちに毅宗(きそう)は没蔵后を廃して梁氏(りょうし)を迎えたとする。訛龐(かぼう)を除いたのちは蕃礼(ばんれい)をやめて漢の儀礼に従うことを宋(そう)に願い、中国(ちゅうごく)の衣冠で宋(そう)の使者を迎えたいと願い出て許され、のちに九経(きゅうけい)などの書物を求めた。1066年には自ら大順城(たいじゅんじょう)を攻めたが、流れ矢が鎧(よろい)を貫いて退いた。1068年の初めに没し、廟号(びょうごう)を毅宗(きそう)とされた。宋史(そうし)は死因を書かず、西夏(せいか)書事(しょじ)は好色で臣下に怨まれ、身体が衰えて死んだとする。

在位中の出来事(13件)

改元1049年元号を「延嗣寧国」とする
改元1050年元号を「天祐垂聖」とする
改元1053年元号を「福聖承道」とする
立后1056年外戚・没藏訛龐が実権を握る中、その娘(毅宗の生母=没藏氏〈皇太后〉が同年に暗殺された後)を毅宗の皇后として冊立。
改元1057年元号を「奲都」とする
立后1061年
被反乱1061年没藏訛龐の弑逆未遂・クーデター計画
改元1063年元号を「拱化」とする
被反乱1063年横山酋輕泥懐側の叛乱
被反乱1064年夏州羌邈奔の西蕃投降(隴・珠・阿諾三城割譲)
残り3件を表示
親征1066年宋(慶州・大順城)
被反乱1067年横山羌令凌の宋への内附
被反乱1067年嵬名山の綏州を以ての宋への内降

西夏の歴代皇帝

10名の一覧

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