西夏第9代分裂期の王朝
献宗李徳旺
在位 1224年1月〜1226年8月(2年182日)
姓李諱徳旺
献宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 西夏書事 巻42
- 即位経路
- 西夏書事 巻41
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
父の譲位を受けて西夏の位に就き、モンゴルに抗うため金と和を結んだが、チンギスの親征のさなかに没した皇帝である。
即位まで
西夏書事によれば、モンゴルがたびたび使者を送って責めたので、父の神宗は恐れて次子の献宗に位を譲り、自らは上皇と号した。宋史はこの譲位を1223年とするが、理由は記さない。金史は、神宗の太子は別人の李徳任で、金を攻めることを諫めて太子を辞したため霊州に閉じ込められたと記す。
治世と最期
1224年、チンギスが西域から戻らないと聞くと、漠北の諸部と結んでひそかにモンゴルを防ぐ計を立てた。同じ年、金に使者を送って修好を求める一方、銀州を失うとモンゴルに降伏を請い、人質を出すと約束して沙州の囲みを解かせた。1225年、モンゴルが人質を求めてきても、金との修好を理由に送らなかった。同じ年、金を兄とし、それぞれの年号を使う形で金と和議を結んだ。金史の西夏伝はこの和議を1224年とするが、同じ金史の哀宗紀は1225年とする。さらにモンゴルの仇である乃蛮部の亡命者を、羅世昌の諫めを聞かずに受け入れた。元史は、西夏が仇人を受け入れて人質を送らなかったことを理由に、1226年にチンギスが自ら西夏を討ったと記す。モンゴル軍は黒水城を破って粛州を屠り、甘州と西涼府を取った。西夏書事によれば、城邑がことごとく潰えるなかで献宗は憂え恐れて病を発し、同じ年に没した。宋史と金史は死因を書かない。国人はその弟の子の南平王を立てた。
在位中の出来事(1件)
改元1224年元号を「乾定」とする