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西夏(せいか)第4代分裂期の王朝

崇宗(すうそう)李乾順(りけんじゅん)

在位 1086年8月21日〜1139年7月1日(52年327日)

姓李(り)諱乾順(けんじゅん)

崇宗の人物データ

生年
不詳
在位
  • 1086年8月21日〜1139年7月1日
在位 52年327日3歳で即位(数え年)・長さは365名中5位
没年
1139年7月1日56歳(数え年)267名中長寿順51位タイ
死因
不詳365名中33名
即位経路
継承(経緯記載なし)
先代
  • 恵宗西夏崇宗は恵宗の子
次代
  • 仁宗西夏仁宗は崇宗の子
目立つ記録
  • 改元8回(327名中6位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
宋史 巻486/西夏書事 巻37付近
即位経路
宋史 巻486

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

幼くして即位して母の梁(りょう)太后(たいこう)と外戚(がいせき)の梁(りょう)乙逋(いつほ)に政治を握られ、遼(りょう)が滅びかけると金に臣従した西夏(せいか)の皇帝である。

即位まで

恵宗(けいそう)の長子で、母は梁氏(りょうし)である。西夏(せいか)書事(しょじ)によれば、恵宗(けいそう)は梁(りょう)太后(たいこう)と兄の梁(りょう)乙逋(いつほ)が権力を握るなかで憂えて没し、1086年に乾順(けんじゅん)が位に就いた。宋史(そうし)は即位の経緯を書かず、遼史(りょうし)は遼(りょう)が使者を送って国事を執らせたと記す。

治世と最期

梁(りょう)太后(たいこう)は自ら兵を率いて宋(そう)の環州(かんしゅう)を攻めた。西夏(せいか)書事(しょじ)は、簒奪(さんだつ)を謀った梁(りょう)乙逋(いつほ)を大首領(だいしゅりょう)たちが1094年に討ち、一家を滅ぼしたとするが、宋史(そうし)は誓表(せいひょう)の中で凶党が誅(ちゅう)に伏したと触れるだけである。1099年に梁(りょう)太后(たいこう)が没した。宋史(そうし)はその死を記すだけで、西夏(せいか)書事(しょじ)は、成人した乾順(けんじゅん)に政治を渡さない梁(りょう)太后(たいこう)を嫌った遼(りょう)主が人を遣わして毒殺させたと書くが、遼史(りょうし)にはこの話が無い。1101年に蕃学(ばんがく)とは別に国学を建て、学生三百人を置いて食を給した。遼(りょう)の宗室(そうしつ)の娘で成安公主(せいあんこうしゅ)に封じられた南仙(なんせん)を妃に迎えたが、その年を遼史(りょうし)は1105年、宋史(そうし)は1104年に置く。1119年には弟の察哥(さつか)が宋将(そうしょう)の劉(りゅう)法を破り、宋(そう)側の死者は十万に及んだと宋史(そうし)は記す。遼(りょう)が滅びかけると天祚帝(てんそてい)を自国に迎えようとしたが、1124年には誓表(せいひょう)を奉って遼(りょう)に仕えたのと同じ礼で金に臣従した。西夏(せいか)書事(しょじ)によれば、成安公主(せいあんこうしゅ)が生んだ世子の仁愛はこれを泣いて諫(いさ)めて聴かれず、鬱々として没した。1139年に没し、没した年齢を西夏(せいか)書事(しょじ)と宋史(そうし)は1歳違えて書く。どの書も死因を書いておらず、このサイトの死因が不詳となっているのはそのためである。

在位中の出来事(14件)

改元1086年9月元号を「天儀治平」とする
改元1090年元号を「天祐民安」とする
被反乱1094年梁乙逋纂奪未遂事件
親征1096年宋(延州・金明寨)
大赦1097年
改元1098年元号を「永安」とする
改元1101年元号を「貞観」とする
親征1107年〜1110年宋(怀德军/平夏城方面)
改元1114年元号を「雍寧」とする
改元1119年元号を「元徳」とする
残り4件を表示
改元1127年元号を「正徳」とする
大赦1127年
改元1135年元号を「大徳」とする
立后1138年任氏を皇后に册立。

西夏の歴代皇帝

10名の一覧

即位経路が「継承(経緯記載なし)」の17名をデータベースで見る

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