西夏第7代分裂期の王朝
襄宗李安全
在位 1206年3月1日〜1211年8月12日(5年150日)
姓李諱安全
襄宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 金史 列伝72/西夏書事 巻40
- 即位経路
- 金史 列伝72/宋史 巻486/西夏書事 巻39
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
李安全は越王仁友の子で、1206年に主君の純祐を廃して自立し、没した。
即位まで
宋史は、安全を崇宗の孫で越王仁友の子と記し、金史の夏国伝は仁孝の弟の仁友の子と記すが、西夏書事は仁友を仁孝の族弟とする。西夏書事は、安全が国政を久しく専らにしたあげく、純祐の母の羅氏とともに純祐を廃して自立し、天慶十三年を応天元年と改めたと記す。羅氏が金に奉表し、純祐は嗣守できないと述べて安全の冊封を請うた。金主は使者を遣わして廃立の理由を詰問した。金が安全を夏国王に冊した月を、西夏書事と金史の章宗紀は違えて記す。
治世と最期
西夏書事は、1209年にモンゴル軍が中興府を囲むと、安全が自ら将士を督して城に登って守り、モンゴル軍は堤を築いて水攻めにしたと記す。安全は金に援軍を求めたが、金主は、敵同士が攻め合うのは我が国の福だと言って出兵しなかった。河堤が決壊してモンゴル軍が退くと、安全は娘を納めて和を請うた。元史の太祖紀も、夏主が娘を納めて和を請うたと記す。1210年、安全は金が援軍を出さなかったことを怒り、万騎を遣わして金の葭州を攻めたと西夏書事は記す。金史は、遵頊が立ったのは安全が薨ずる一月前で、衛紹王に実録が無く、事情は不明と記す。安全の死因は、西夏書事・宋史・金史のいずれにも記されていない。西夏書事の論は、在位六年に善事の記すべきものが無く、モンゴルに娘を納め、金には恩に背いて兵を加えたと断じる。
在位中の出来事(4件)
改元1206年3月1日元号を「応天」とする
親征1209年蒙古(中興府包囲戦への親征防衛)
改元1210年元号を「皇建」とする
親征1211年6月黑塔坦(河西侵攻への迎撃)