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西夏(せいか)第7代分裂期の王朝

襄宗(じょうそう)李(り)安全(あんぜん)

在位 1206年3月1日〜1211年8月12日(5年150日)

姓李(り)諱安全(あんぜん)

襄宗の人物データ

生年
不詳
在位
  • 1206年3月1日〜1211年8月12日
在位 5年150日長さは365名中183位
没年
1211年9月13日42歳(数え年)267名中長寿順122位タイ
死因
不詳365名中33名
即位経路
簒奪
先代
  • 桓宗西夏襄宗は桓宗の従兄弟
次代
  • 神宗西夏神宗は襄宗の同族(遠縁)

出典(死因・即位経路)

死因
金史 列伝72/西夏書事 巻40
即位経路
金史 列伝72/宋史 巻486/西夏書事 巻39

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

李(り)安全(あんぜん)は越王(えつおう)仁友(じんゆう)の子で、1206年に主君の純祐(じゅんゆう)を廃して自立し、没した。

即位まで

宋史(そうし)は、安全(あんぜん)を崇宗(すうそう)の孫で越王(えつおう)仁友(じんゆう)の子と記し、金史(きんし)の夏国伝は仁孝(じんこう)の弟の仁友(じんゆう)の子と記すが、西夏(せいか)書事(しょじ)は仁友(じんゆう)を仁孝(じんこう)の族弟とする。西夏(せいか)書事(しょじ)は、安全(あんぜん)が国政を久しく専らにしたあげく、純祐(じゅんゆう)の母の羅氏(らし)とともに純祐(じゅんゆう)を廃して自立し、天慶(てんけい)十三年を応天(おうてん)元年と改めたと記す。羅氏(らし)が金に奉表(ほうひょう)し、純祐(じゅんゆう)は嗣守(ししゅ)できないと述べて安全(あんぜん)の冊封(さくほう)を請うた。金主は使者を遣わして廃立の理由を詰問した。金が安全(あんぜん)を夏国王(かこくおう)に冊(さく)した月を、西夏(せいか)書事(しょじ)と金史(きんし)の章宗(しょうそう)紀(き)は違えて記す。

治世と最期

西夏(せいか)書事(しょじ)は、1209年にモンゴル軍が中興府(ちゅうこうふ)を囲むと、安全(あんぜん)が自ら将士を督して城に登って守り、モンゴル軍は堤を築いて水攻めにしたと記す。安全(あんぜん)は金に援軍を求めたが、金主は、敵同士が攻め合うのは我が国の福だと言って出兵しなかった。河堤が決壊してモンゴル軍が退くと、安全(あんぜん)は娘を納めて和を請うた。元史(げんし)の太祖(たいそ)紀(き)も、夏主(かしゅ)が娘を納めて和を請うたと記す。1210年、安全(あんぜん)は金が援軍を出さなかったことを怒り、万騎を遣わして金の葭州(かしゅう)を攻めたと西夏(せいか)書事(しょじ)は記す。金史(きんし)は、遵頊(じゅんきょく)が立ったのは安全(あんぜん)が薨(こう)ずる一月前で、衛紹王(えいしょうおう)に実録(じつろく)が無く、事情は不明と記す。安全(あんぜん)の死因は、西夏(せいか)書事(しょじ)・宋史(そうし)・金史(きんし)のいずれにも記されていない。西夏(せいか)書事(しょじ)の論は、在位六年に善事の記すべきものが無く、モンゴルに娘を納め、金には恩に背いて兵を加えたと断じる。

在位中の出来事(4件)

改元1206年3月1日元号を「応天」とする
親征1209年蒙古(中興府包囲戦への親征防衛)
改元1210年元号を「皇建」とする
親征1211年6月黑塔坦(河西侵攻への迎撃)

西夏の歴代皇帝

10名の一覧

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