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西夏(せいか)第8代分裂期の王朝

神宗(しんそう)李遵頊(りじゅんきょく)

在位 1211年8月12日〜1224年1月(12年145日)

姓李(り)諱遵頊(じゅんきょく)

神宗の人物データ

生年
不詳
在位
  • 1211年8月12日〜1224年1月
在位 12年145日49歳で即位(数え年)・長さは365名中113位
没年
1226年3月64歳(数え年)267名中長寿順26位タイ
死因
不詳365名中33名
即位経路
継承(経緯記載なし)
先代
  • 襄宗西夏神宗は襄宗の同族(遠縁)
次代
  • 献宗西夏献宗は神宗の子
目立つ記録
  • 皇太子廃立1回(27名中4位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
西夏書事 巻41-42/宋史 巻486
即位経路
金史 列伝72/西夏書事 巻39-40

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

西夏(せいか)の宗室(そうしつ)で進士に第一で及第した人物で、位に即くと金と十年にわたって戦い、モンゴルに従属し、その責めを恐れて子に位を譲った。

即位まで

宋史(そうし)は斉国忠武王(せいこくちゅうぶおう)彦宗(げんそう)の子とし、西夏(せいか)書事(しょじ)は父の名を彦忠(げんちゅう)と書く。金史(きんし)は前王李(り)安全(あんぜん)の族子(ぞくし)とする。1203年、宗室(そうしつ)として廷試(ていし)に応じて第一で進士に及第し、斉王の爵を継いだ。1211年に立って光定(こうてい)と改元(かいげん)した。即位は李(り)安全(あんぜん)の死の一月前で、李(り)安全(あんぜん)の子は立たなかったが、金史(きんし)は衛紹王(えいしょうおう)の実録(じつろく)が無いためその理由が分からないとし、西夏(せいか)書事(しょじ)もその事情は史に詳らかでないとする。

治世と最期

翌年、金は使者を送って李遵頊(りじゅんきょく)を夏国王(かこくおう)に冊封(さくほう)した。金史(きんし)の西夏(せいか)伝は、金と夏は八十年余り戦わなかったが、このころから十年にわたって争い、両国とも精鋭を失って疲れたとまとめる。西夏(せいか)書事(しょじ)によれば、夏はモンゴルに女を納めて降り、兵を合わせて金を攻めたが、徴発が重なって礼が疎かになると、モンゴルに中興府(ちゅうこうふ)を囲まれた。1218年、李遵頊(りじゅんきょく)は太子の李(り)徳任(とくじん)に留守させて西涼(せいりょう)へ逃れ、のちに降を請うてモンゴルの兵が退いた。1223年、太子の李(り)徳任(とくじん)に金を討たせようとしたが、李(り)徳任(とくじん)は和を約すべきだと諫(いさ)め、聞かれないと太子の位を辞して僧になることを願ったので、怒って霊州(れいしゅう)に幽閉した。まもなく、モンゴルからたびたび使者が来て責められると、李遵頊(りじゅんきょく)は恐れて子の李(り)徳旺(とくおう)に位を譲り、上皇と号した。1226年に死に、英文皇帝(ぶんこうてい)と諡(おくりな)され、廟号(びょうごう)を神宗(しんそう)とした。死んだ時期を金史(きんし)は年の初めとし、西夏(せいか)書事(しょじ)は粛州(しゅくしゅう)の陥落より後に置く。

在位中の出来事(2件)

改元1211年8月12日元号を「光定」とする
皇太子廃立1223年皇太子李徳任が父・遵頊の対金侵攻方針を諫め、聞き入れられず出家(避太子位)を願い出たところ、遵頊は激怒し徳任を霊州に幽閉した。

西夏の歴代皇帝

10名の一覧

即位経路が「継承(経緯記載なし)」の17名をデータベースで見る

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