西夏第8代分裂期の王朝
神宗李遵頊
在位 1211年8月12日〜1224年1月(12年145日)
姓李諱遵頊
神宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 西夏書事 巻41-42/宋史 巻486
- 即位経路
- 金史 列伝72/西夏書事 巻39-40
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
西夏の宗室で進士に第一で及第した人物で、位に即くと金と十年にわたって戦い、モンゴルに従属し、その責めを恐れて子に位を譲った。
即位まで
宋史は斉国忠武王彦宗の子とし、西夏書事は父の名を彦忠と書く。金史は前王李安全の族子とする。1203年、宗室として廷試に応じて第一で進士に及第し、斉王の爵を継いだ。1211年に立って光定と改元した。即位は李安全の死の一月前で、李安全の子は立たなかったが、金史は衛紹王の実録が無いためその理由が分からないとし、西夏書事もその事情は史に詳らかでないとする。
治世と最期
翌年、金は使者を送って李遵頊を夏国王に冊封した。金史の西夏伝は、金と夏は八十年余り戦わなかったが、このころから十年にわたって争い、両国とも精鋭を失って疲れたとまとめる。西夏書事によれば、夏はモンゴルに女を納めて降り、兵を合わせて金を攻めたが、徴発が重なって礼が疎かになると、モンゴルに中興府を囲まれた。1218年、李遵頊は太子の李徳任に留守させて西涼へ逃れ、のちに降を請うてモンゴルの兵が退いた。1223年、太子の李徳任に金を討たせようとしたが、李徳任は和を約すべきだと諫め、聞かれないと太子の位を辞して僧になることを願ったので、怒って霊州に幽閉した。まもなく、モンゴルからたびたび使者が来て責められると、李遵頊は恐れて子の李徳旺に位を譲り、上皇と号した。1226年に死に、英文皇帝と諡され、廟号を神宗とした。死んだ時期を金史は年の初めとし、西夏書事は粛州の陥落より後に置く。
在位中の出来事(2件)
改元1211年8月12日元号を「光定」とする
皇太子廃立1223年皇太子李徳任が父・遵頊の対金侵攻方針を諫め、聞き入れられず出家(避太子位)を願い出たところ、遵頊は激怒し徳任を霊州に幽閉した。