西夏第5代分裂期の王朝
仁宗李仁孝
在位 1139年7月1日〜1193年10月16日(54年121日)
姓李諱仁孝
仁宗の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 宋史 巻486/西夏書事 巻39付近
- 即位経路
- 宋史 巻486
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
学校を建てて孔子を文宣帝と尊び、国を割こうとした権臣の任得敬を除いた西夏の皇帝である。西夏書事の論は、儒学を崇んで学生を三千人に増やしたことを讃えつつ、任得敬を除いたのちに奢りが兆したと評する。
即位まで
崇宗の長子で、1139年に崇宗が没して即位した。西夏書事は母を曹妃とし、即位後に任氏と曹氏の2人をともに太后に尊んだと書くが、宋史は母の曹氏を国母に尊んだとだけ記す。続資治通鑑は任得敬を仁宗の外祖としており、書によって任氏との続柄の書き方が分かれる。
治世と最期
即位の直後に夏州で乱が起こると、静州統軍の任得敬が夏州を奪い返して取り立てられた。州県に学校を立てさせ、宮中に小学を置いて宗室の子弟を学ばせたが、その年を西夏書事は1144年、宋史は1143年に置く。任得敬は1160年に楚王に封じられ、西夏書事によれば学校の全廃を上言し、霊州の城を大きく築いて仁宗を瓜州・沙州へ移そうとした。金史によれば、仁宗は任得敬を抑えきれず、1170年に西南路と霊州の地を割いて国を立てさせ、金にその冊封を求めた。金の世宗は、これは権臣に迫られたものだとして冊封を拒み、貢物を返した。冊封を得られなかった任得敬を、仁宗はその年のうちに党とともに誅し、金に感謝の表を送った。宋史はこの誅殺を1168年の段に置き、金史・西夏書事・続資治通鑑と年が食い違う。1193年に没した。どの書も死因を書いておらず、このサイトの死因が不詳となっているのはそのためである。
在位中の出来事(12件)
改元1140年元号を「大慶」とする
立后1140年
被反乱1140年夏州統軍蕭合達(李合達)の乱
被反乱1141年慕洧兄弟の謀叛
被反乱1143年威州大斌・静州埋慶・定州也浪富児等族の飢民蜂起
改元1144年元号を「人慶」とする
改元1149年元号を「天盛」とする
大赦1155年
被反乱1165年〜1169年荘浪族(陇逋・庞拝・吹折・密臧諸門)及び結什角の離反
立后1167年
残り2件を表示
改元1170年元号を「乾祐」とする
被反乱1170年任得敬の胁主分国・クーデター未遂