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燕(えん)(唐(とう))第4代分裂期の王朝

史朝義(しちょうぎ)

在位 761年4月22日〜763年1月28日(1年281日)

姓史(し)諱朝義(ちょうぎ)

史朝義の人物データ

生年
不詳
在位
  • 761年4月22日〜763年1月28日
在位 1年281日長さは365名中269位
没年
763年1月28日
死因
自尽非業の死・365名中14名
即位経路
簒奪
先代
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
新唐書 巻二百二十五上(逆臣上)/旧唐書 巻二百上(逆臣上)
即位経路
新唐書 巻二百二十五上(逆臣上)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

史朝義(しちょうぎ)は史思明(ししめい)の子で、761年に父を殺した一党に擁されて燕(えん)の帝位に即いた。官軍に敗れ続け、763年に自ら首を括って死んだ。

即位まで

旧唐書(くとうじょ)の列伝(れつでん)は朝義(ちょうぎ)を思明(しめい)の庶子(しょし)で寛厚な人とし、新唐書(しんとうじょ)の列伝(れつでん)は庶出(しょしゅつ)の長子とする。資治通鑑(しじつがん)によれば、思明(しめい)は弟の朝清(ちょうせい)を愛し、朝義(ちょうぎ)を殺して朝清(ちょうせい)を太子に立てようとたびたび考えていた。陝州(せんしゅう)攻めのとき、築城の遅さをなじられ、陝州(せんしゅう)を取ったら斬ると言われて、朝義(ちょうぎ)は大いに恐れた。部将の駱(らく)悦らは、このままでは死ぬと説いた。朝義(ちょうぎ)は応じなかったが、駱(らく)悦が唐に帰ると迫ると、これを認めた。駱(らく)悦らが思明(しめい)を射落として柳泉駅(りゅうせんえき)で絞め殺し、旧唐書(くとうじょ)の列伝(れつでん)は、朝義(ちょうぎ)は続いて偽位(ぎい)に即いたと記す。

治世と最期

新唐書(しんとうじょ)の列伝(れつでん)と資治通鑑(しじつがん)は、朝義(ちょうぎ)が皇帝に即位して顕聖(けんせい)と建元(けんげん)したと記す。旧唐書(くとうじょ)は列伝(れつでん)にも本紀(ほんぎ)にも、朝義(ちょうぎ)の年号を記していない。資治通鑑(しじつがん)によれば、即位後、朝義(ちょうぎ)は范陽(はんよう)へ密使を送り、朝清(ちょうせい)とその母の辛氏(しんし)ら数十人を殺させた。范陽(はんよう)の党同士の戦いは数か月続き、数千人が死んだ。762年、官軍と回紇(かいこつ)の兵が洛陽(らくよう)に迫ると、朝義(ちょうぎ)は大敗した。旧唐書(くとうじょ)の列伝(れつでん)は戦場を邙山(ぼうざん)、本紀(ほんぎ)と資治通鑑(しじつがん)は横水(おうすい)とする。763年、莫州(ばくしゅう)で田承嗣(しょうし)が朝義(ちょうぎ)を幽州(ゆうしゅう)へ送り出して降り、朝義(ちょうぎ)の母・妻・子を官軍へ送った。資治通鑑(しじつがん)は、朝義(ちょうぎ)が李(り)懐仙(かいせん)の兵に追いつかれ、窮して林の中で縊死(いし)したと記し、新唐書(しんとうじょ)の列伝(れつでん)も縊死(いし)とする。旧唐書(くとうじょ)の列伝(れつでん)は、懐仙(かいせん)が朝義(ちょうぎ)を生け捕りにしたと書き、縊死(いし)とは記さない。死の年月は書によって異なり、旧唐書(くとうじょ)の本紀(ほんぎ)は762年の末に置き、新唐書(しんとうじょ)と資治通鑑(しじつがん)は763年とする。資治通鑑(しじつがん)考異(こうい)は763年を採る。

在位中の出来事(3件)

改元761年4月22日元号を「顕聖」とする
親征762年唐(副元帥雍王・僕固懐恩・回紇連合軍ら官軍)
被反乱763年李懐仙の離反・莫州における朝義捕縛事件

燕の歴代皇帝

4名の一覧

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