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西遼(せいりょう)(遼(りょう)・西夏(せいか)・金(きん))第1代分裂期の王朝

徳宗天祐皇帝(とくそうてんゆうこうてい)耶律大石(やりつたいせき)

在位 1132年〜1143年(11年3日)

姓耶律(やりつ)諱大石(たいせき)字重徳(じゅうとく)廟号徳宗(とくそう)

徳宗天祐皇帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 1132年〜1143年
在位 11年3日長さは365名中123位
没年
1143年
死因
不詳365名中33名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
—
次代

出典(死因・即位経路)

死因
遼史 巻三十(天祚皇帝紀四附耶律大石伝)
即位経路
遼史 巻三十(天祚皇帝紀四附耶律大石伝)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

耶律大石(やりつたいせき)は遼(りょう)の太祖(たいそ)の八代孫で、1122年に秦晋王(しんしんおう)淳(じゅん)を立てたのち、西へ遷って皇帝となり、世に西遼(せいりょう)と呼ばれる国を建てた。

即位まで

遼史(りょうし)は、大石(たいせき)は字を重徳(じゅうとく)といい、進士に登って翰林応奉(かんりんおうほう)となり、大石(たいせき)林牙(りんが)と呼ばれたと記す。1122年、金兵が迫って天祚帝(てんそてい)が逃れると、大石(たいせき)は諸大臣と秦晋王(しんしんおう)淳(じゅん)を帝に立てた。金兵が来ると蕭(しょう)徳妃(とくひ)は天祚帝(てんそてい)のもとへ帰り、天祚帝(てんそてい)は怒って徳妃(とくひ)を誅(ちゅう)した。大石(たいせき)は金兵に捕らえられたが、1123年に金から天祚帝(てんそてい)のもとへ帰り、淳(じゅん)を立てたことを天祚帝(てんそてい)に責められた。大石(たいせき)は、陛下は全国の力で一度も敵を拒めず、国を捨てて遠く遁(のが)れたと答えた。天祚帝(てんそてい)は答えられず、大石(たいせき)を赦した。それでも大石(たいせき)は不安になり、蕭(しょう)乙薛(いつせつ)と坡里括(はりかつ)を殺して自ら王を称し、鉄騎(てっき)二百を率いて夜に遁(のが)れた。

治世と最期

大石(たいせき)は可敦城(かとんじょう)に至って北庭都護府(ほくていとごふ)に駐し、七州(しちしゅう)と十八部の王衆(おうしゅう)を集め、精兵一万余を得た。西へ進むと、回鶻(かいこつ)王の畢勒哥(ひつろくか)は附庸となることを願った。尋思干(じんしかん)では西域諸国の十万の兵を破った。起児漫(きじまん)で文武百官が大石(たいせき)を帝に冊立(さくりつ)し、遼史(りょうし)は、尊号(そんごう)を天佑皇帝(てんゆうこうてい)とし、改元(かいげん)して延慶(えんけい)としたと記す。延慶(えんけい)三年に東へ引き返して都城を建て、延慶(えんけい)を康国(こうこく)に改めた。康国(こうこく)元年、蕭(しょう)斡里剌(あつりら)に七万騎を率いて東征させたが、一万余里行っても得るものが無く、兵を引いた。遼史(りょうし)は、即位を甲辰(こうしん)の年、没を康国(こうこく)十年、在位を二十年と記すだけで、死因は書かない。表の在位の年は、遼史(りょうし)のこれらの数とは揃(そろ)わない。

在位中の出来事(3件)

改元1132年元号を「延慶」とする
立后1132年皇帝即位(延慶改元)と同じ条で、元妃蕭氏を昭徳皇后に冊立した。
改元1134年元号を「康国」とする

西遼の歴代皇帝

3名の一覧

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