西遼(遼・西夏・金)第1代分裂期の王朝
徳宗天祐皇帝耶律大石
在位 1132年〜1143年(11年3日)
姓耶律諱大石字重徳廟号徳宗
徳宗天祐皇帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 遼史 巻三十(天祚皇帝紀四附耶律大石伝)
- 即位経路
- 遼史 巻三十(天祚皇帝紀四附耶律大石伝)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
耶律大石は遼の太祖の八代孫で、1122年に秦晋王淳を立てたのち、西へ遷って皇帝となり、世に西遼と呼ばれる国を建てた。
即位まで
遼史は、大石は字を重徳といい、進士に登って翰林応奉となり、大石林牙と呼ばれたと記す。1122年、金兵が迫って天祚帝が逃れると、大石は諸大臣と秦晋王淳を帝に立てた。金兵が来ると蕭徳妃は天祚帝のもとへ帰り、天祚帝は怒って徳妃を誅した。大石は金兵に捕らえられたが、1123年に金から天祚帝のもとへ帰り、淳を立てたことを天祚帝に責められた。大石は、陛下は全国の力で一度も敵を拒めず、国を捨てて遠く遁れたと答えた。天祚帝は答えられず、大石を赦した。それでも大石は不安になり、蕭乙薛と坡里括を殺して自ら王を称し、鉄騎二百を率いて夜に遁れた。
治世と最期
大石は可敦城に至って北庭都護府に駐し、七州と十八部の王衆を集め、精兵一万余を得た。西へ進むと、回鶻王の畢勒哥は附庸となることを願った。尋思干では西域諸国の十万の兵を破った。起児漫で文武百官が大石を帝に冊立し、遼史は、尊号を天佑皇帝とし、改元して延慶としたと記す。延慶三年に東へ引き返して都城を建て、延慶を康国に改めた。康国元年、蕭斡里剌に七万騎を率いて東征させたが、一万余里行っても得るものが無く、兵を引いた。遼史は、即位を甲辰の年、没を康国十年、在位を二十年と記すだけで、死因は書かない。表の在位の年は、遼史のこれらの数とは揃わない。
在位中の出来事(3件)
改元1132年元号を「延慶」とする
立后1132年皇帝即位(延慶改元)と同じ条で、元妃蕭氏を昭徳皇后に冊立した。
改元1134年元号を「康国」とする
西遼の歴代皇帝
3名の一覧- 第1代徳宗天祐皇帝1132–1143年不詳
- 第3代仁宗正徳皇帝1150–1163年不詳
- 第5代天禧皇帝1177–1211年病死