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斉(せい)・宋金代(そうきんだい)(遼(りょう)・西夏(せいか)・金(きん))第1代分裂期の王朝

劉豫(りゅうよ)

在位 1130年10月12日〜1138年1月1日(7年83日)

姓劉(りゅう)諱豫(よ)字彦游(げんゆう)

劉豫の人物データ

生年
不詳
在位
  • 1130年10月12日〜1138年1月1日
在位 7年83日長さは365名中156位
没年
不詳
死因
病死365名中167名
即位経路
推戴帝号を新たに称した
先代
—
次代
—
目立つ記録
  • 遷都1回(42名中9位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
宋史 巻475 列伝234(叛臣上・劉豫伝)/金史 巻77 列伝15(劉豫伝)・熙宗本紀
即位経路
宋史 巻475 列伝234(叛臣上・劉豫伝)/金史 巻77 列伝15(劉豫伝)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

済南(さいなん)で金に降り、金に立てられて大斉(だいせい)の皇帝となったが、南宋(なんそう)の攻略に失敗して金に廃された人物である。

即位まで

景州(けいしゅう)阜城(ふじょう)の人で、農家から進士に及第した。1128年に知済南府(さいなんふ)となったが、山東(さんとう)行きを嫌って東南の郡への転任を願ったが拒まれ、憤りながら赴任した。金軍に済南(さいなん)を攻められると、金の誘いと先の恨みから将の関勝を殺し、城壁から縄で下りて金に降った。宋史(そうし)は、子の劉(りゅう)麟(りん)に宝物を持たせて金の撻辣(たつらつ)に帝号(ていごう)を求めたと書き、金史(きんし)に賄賂の記述は無く、撻懶(たつらん)が封を求め、張邦昌(ちょうほうしょう)の先例にならって立てたと書く。1130年に金から冊立(さくりつ)されて国号を大斉(だいせい)とし、同じ年に即位した。金の太宗(たいそう)の詔は、劉豫(りゅうよ)を子皇帝(しこうてい)と位置づけている。

治世と最期

母を皇太后、宣和(せんな)の宮人(きゅうじん)だった銭氏(せんし)を皇后とし、翌年からの元号を阜昌(ふしょう)とした。1132年に汴(べん)へ都を移し、宋(そう)の太廟(たいびょう)に自分の祖先を祀(まつ)った。1134年には天下を一つにすると掲げて子の劉(りゅう)麟(りん)らに南宋(なんそう)を攻めさせた。1136年には民兵30万で三方から攻めたが敗れ、これで人心を失って、金は廃位を考え始めた。1138年の初め、金は先に劉(りゅう)麟(りん)を城外に誘い出して捕らえ、兀朮(うじゅ)が三騎で東華門(とうかもん)に突入して劉豫(りゅうよ)の手を取り、金明池(きんめいち)に閉じ込めて蜀王(しょくおう)とした。撻辣(たつらつ)は、宋(そう)の少帝(しょうてい)が都を出たときは民が泣いたが、お前が廃されても憐(あわ)れむ者は一人もいないと言った。没年を宋史(そうし)は1143年とし、金史(きんし)と続資治通鑑(しじつがん)は1146年とする。死因はどちらの書にも無く、このサイトの死因が病死となっているのは、両書が通常の死を表す語で記していることによる。

在位中の出来事(5件)

大赦1130年10月12日
立后1130年11月即位の翌月(十月)、母の翟氏を皇太后に、妾の銭氏を皇后に冊立。
改元1130年12月元号を「阜昌」とする
遷都1132年大名府 → 汴(開封/汴京)
被反乱1138年1月1日金軍による劉豫拘束・廃位クーデター

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