後唐(五代十国)第3代分裂期の王朝
閔帝李従厚
在位 933年12月20日〜934年5月(155日)
姓李諱従厚幼名菩薩奴
閔帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 旧五代史 巻四十五(唐書・閔帝紀)
- 即位経路
- 旧五代史 巻四十五(唐書・閔帝紀)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
閔帝(李従厚)は後唐の明宗の子で、兄の秦王李従栄が誅されたのちに召されて帝位を継いだ。翌年、鳳翔の潞王李従珂が挙兵して洛陽に入り、李従厚は都を逃れたのちに廃されて殺された。
即位まで
旧五代史は李従厚を明宗の第三子とし、新五代史の本紀は第五子とするが、同じ新五代史の家人伝が並べる明宗の子では三番目に当たる。同母兄の李従栄は、徳望のある李従厚を深く疑い嫌っていた。933年、李従栄が誅されると、明宗は鄴にいた李従厚を召し、その後まもなく崩じた。明宗の喪が発せられると、李従厚は柩前で即位し、翌年に応順と改元した。
治世と最期
朝政を握った朱弘昭・馮贇は、潞王李従珂と石敬瑭を警戒した。934年、朝廷が李従珂を鳳翔から移そうとすると、李従珂は命を拒んで兵を挙げた。鳳翔を囲んだ討伐軍は、将が兵を率いて城内に寝返ったために崩れた。敗報を聞いた李従厚は、自ら兄を迎えて社稷を任せ、自分は藩に帰ると語った。朱弘昭は井戸に身を投げ、馮贇は殺され、李従厚はその夜に玄武門から都を出た。衛州で出会った石敬瑭の側に従騎をことごとく殺され、李従厚はひとり駅に残された。李従珂は洛陽に入って即位し、李従厚は鄂王に落とされ、衛州へは王巒が送られた。最期について、旧五代史は鴆毒で崩じたとし、資治通鑑は毒と知って飲まなかった李従厚を王巒が縊り殺したとし、新五代史の王弘贄伝は疑わずに鴆を飲んだとする。鄂王に落とされた日も、旧五代史の閔帝紀と末帝紀とで異なり、末帝紀と資治通鑑は李従珂の即位より前に太后の令で落としたとする。
在位中の出来事(3件)
改元934年1月24日元号を「応順」とする
大赦934年1月24日応順元年(長興五年)正月七日戊寅、明堂殿での改元と同時に大赦天下を宣した。
被反乱934年4月6日〜934年5月24日潞王李従珂の反乱
後唐の歴代皇帝
4名の一覧- 第1代荘宗923–926年暗殺
- 第2代明宗926–933年病死
- 第3代閔帝933–934年暗殺
- 第4代末帝934–937年自尽