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後唐(こうとう)(五代十国(ごだいじっこく))第3代分裂期の王朝

閔帝(びんてい)李従厚(りじゅうこう)

在位 933年12月20日〜934年5月(155日)

姓李(り)諱従厚(じゅうこう)幼名菩薩奴(ぼさつど)

閔帝の人物データ

生年
914年12月17日
在位
  • 933年12月20日〜934年5月
在位 155日20歳で即位(数え年)・長さは365名中325位
没年
934年5月24日21歳(数え年)267名中長寿順228位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
世襲
先代
  • 明宗後唐閔帝は明宗の子
次代

出典(死因・即位経路)

死因
旧五代史 巻四十五(唐書・閔帝紀)
即位経路
旧五代史 巻四十五(唐書・閔帝紀)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

閔帝(びんてい)(李従厚(りじゅうこう))は後唐(こうとう)の明宗(めいそう)の子で、兄の秦王(しんおう)李(り)従栄(じゅうえい)が誅(ちゅう)されたのちに召されて帝位を継いだ。翌年、鳳翔(ほうしょう)の潞王(ろおう)李従珂(りじゅうか)が挙兵して洛陽(らくよう)に入り、李従厚(りじゅうこう)は都を逃れたのちに廃されて殺された。

即位まで

旧五代史(きゅうごだいし)は李従厚(りじゅうこう)を明宗(めいそう)の第三子とし、新五代史(しんごだいし)の本紀(ほんぎ)は第五子とするが、同じ新五代史(しんごだいし)の家人伝(かじんでん)が並べる明宗(めいそう)の子では三番目に当たる。同母兄の李(り)従栄(じゅうえい)は、徳望のある李従厚(りじゅうこう)を深く疑い嫌っていた。933年、李(り)従栄(じゅうえい)が誅(ちゅう)されると、明宗(めいそう)は鄴(ぎょう)にいた李従厚(りじゅうこう)を召し、その後まもなく崩じた。明宗(めいそう)の喪が発せられると、李従厚(りじゅうこう)は柩前(きゅうぜん)で即位し、翌年に応順(おうじゅん)と改元(かいげん)した。

治世と最期

朝政を握った朱弘昭(こうしょう)・馮(ふう)贇(いん)は、潞王(ろおう)李従珂(りじゅうか)と石敬瑭(せきけいとう)を警戒した。934年、朝廷が李従珂(りじゅうか)を鳳翔(ほうしょう)から移そうとすると、李従珂(りじゅうか)は命を拒んで兵を挙げた。鳳翔(ほうしょう)を囲んだ討伐軍は、将が兵を率いて城内に寝返ったために崩れた。敗報を聞いた李従厚(りじゅうこう)は、自ら兄を迎えて社稷(しゃしょく)を任せ、自分は藩に帰ると語った。朱弘昭(こうしょう)は井戸に身を投げ、馮(ふう)贇(いん)は殺され、李従厚(りじゅうこう)はその夜に玄武門(げんぶもん)から都を出た。衛州(えいしゅう)で出会った石敬瑭(せきけいとう)の側に従騎(じゅうき)をことごとく殺され、李従厚(りじゅうこう)はひとり駅に残された。李従珂(りじゅうか)は洛陽(らくよう)に入って即位し、李従厚(りじゅうこう)は鄂王(がくおう)に落とされ、衛州(えいしゅう)へは王巒(らん)が送られた。最期について、旧五代史(きゅうごだいし)は鴆毒(ちんどく)で崩じたとし、資治通鑑(しじつがん)は毒と知って飲まなかった李従厚(りじゅうこう)を王巒(らん)が縊(くび)り殺したとし、新五代史(しんごだいし)の王弘贄(おうこうし)伝は疑わずに鴆(ちん)を飲んだとする。鄂王(がくおう)に落とされた日も、旧五代史(きゅうごだいし)の閔帝(びんてい)紀(き)と末帝(まつてい)紀(き)とで異なり、末帝(まつてい)紀(き)と資治通鑑(しじつがん)は李従珂(りじゅうか)の即位より前に太后の令で落としたとする。

在位中の出来事(3件)

改元934年1月24日元号を「応順」とする
大赦934年1月24日応順元年(長興五年)正月七日戊寅、明堂殿での改元と同時に大赦天下を宣した。
被反乱934年4月6日〜934年5月24日潞王李従珂の反乱

後唐の歴代皇帝

4名の一覧

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