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夏(か)・元(げん)第2代分裂期の王朝

明昇(めいしょう)

在位 1366年3月〜1371年8月3日(5年156日)

姓明(みん)諱昇(しょう)

明昇の人物データ

生年
不詳
在位
  • 1366年3月〜1371年8月3日
在位 5年156日10歳で即位(数え年)・長さは365名中180位
没年
不詳
死因
不詳365名中33名
即位経路
世襲
先代
次代
—

出典(死因・即位経路)

死因
明史 巻123 列伝第11(明玉珍伝)
即位経路
明史 巻123 列伝第11(明玉珍伝)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

明昇(めいしょう)は夏の明玉珍(めいぎょくちん)の子で、父の死後に嗣いで開熙(かいき)と改元(かいげん)した。1371年、明軍(みんぐん)の四川(しせん)討伐を受けて降った。

即位まで

明史(みんし)の列伝(れつでん)は、明玉珍(めいぎょくちん)が1362年の春に重慶(じゅうけい)で皇帝に即き、国号を夏、建元(けんげん)を天統(てんとう)とし、子の明昇(めいしょう)を太子に立てたと記す。1366年の春に玉珍(ぎょくちん)が病み、戴寿らを召して嗣子を助けよと諭して卒したと記す。玉珍(ぎょくちん)の死を、新元史(しんげんし)の明玉珍(めいぎょくちん)伝だけが1365年に置き、明史(みんし)と新元史(しんげんし)の順帝本紀(じゅんていほんぎ)は1366年とする。明史(みんし)の本紀(ほんぎ)は、子の明昇(めいしょう)が自ら立ったと記し、新元史(しんげんし)の順帝本紀(じゅんていほんぎ)は、明昇(めいしょう)が僭立(せんりつ)して開熙(かいき)と改元(かいげん)したと記す。母の彭氏(ほうし)が皇太后として政を聴いた。

治世と最期

即位後、万勝と張文炳(ぶんぺい)が不仲になって殺し合い、玉珍(ぎょくちん)の養子の明昭(しょう)が彭氏(ほうし)の旨を偽って万勝を絞殺した。呉友仁(ゆうじん)が保寧(ほねい)から檄(げき)を飛ばして君側を清めると称し、明昇(めいしょう)は戴寿に討たせた。1368年に明の太祖(たいそ)が元の都を攻め落とすと、明昇(めいしょう)は書を奉じて祝賀した。1369年に楊(よう)璟が帰順を諭したが、明昇(めいしょう)は従わなかった。1371年、太祖(たいそ)が水軍と歩騎で蜀(しょく)を伐たせると、夏軍は大敗した。明昇(めいしょう)の母の彭氏(ほうし)は泣いて、早く降って民の命を活かすべきだと言った。そこで明昇(めいしょう)は使いを遣わして降を乞うた。明昇(めいしょう)は面縛(めんばく)し璧をくわえ棺を車に載せて、母の彭氏(ほうし)と官属(かんぞく)とともに軍門(ぐんもん)に降った。明史(みんし)の本紀(ほんぎ)は、帰義侯(きぎこう)に封ぜられたと記す。明史(みんし)の列伝(れつでん)は、翌年に明昇(めいしょう)を高麗へ徙(うつ)したと記し、新元史(しんげんし)は、その行く末は分からないとする。

在位中の出来事(2件)

改元1367年元号を「開熙」とする
被反乱日付不詳呉友仁の乱(清君側を名目とした挙兵)

夏・元の歴代皇帝

2名の一覧

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