夏・元第1代分裂期の王朝
明玉珍
在位 1362年〜1366年3月(4年60日)
姓明諱玉珍廟号太祖
明玉珍の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 明史 巻123 列伝第11(明玉珍伝)
- 即位経路
- 明史 巻123 列伝第11(明玉珍伝)
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
徐寿輝の部将として蜀に入り、徐寿輝が陳友諒に殺されると自立して、重慶で夏の皇帝を称した。明史の列伝は、蜀の兵は弱く明玉珍に遠略は無かったが、倹約で学を好み、身を低くして士に接したと評する。
即位まで
郷里で千余人をまとめて青山に屯していたが、皇帝を称した徐寿輝に、来れば富貴を共にし、来なければ兵を挙げて屠ると招かれて降り、元帥として沔陽を守った。1357年、部将の戴寿の策で重慶を襲って元の守将を走らせ、徐寿輝から隴蜀行省右丞を授けられた。元史の順帝本紀は、明玉珍を四川に置いたのを倪文俊とする。1360年、陳友諒が徐寿輝を弑して自立すると、同じ徐氏の臣でありながらこの悖逆は何事かと言って瞿塘を塞いで通交を絶ち、徐寿輝の廟を建てて祀り、隴蜀王となった。1362年、劉楨の勧めを容れて重慶で即位し、国号を夏、元号を天統とし、妻の彭氏を皇后、子の明昇を太子とした。元史の順帝本紀はこの称帝を翌年の初めに置く。
治世と最期
即位後は国子監を設け、進士科を開き、税を十分の一と定め、蜀の人はこれに安んじた。1363年、三路から雲南を攻めさせ、万勝の兵だけが深く入ったが、孤軍のため引き返した。元史はこの攻撃を前年に置き、捕らえた明二を明玉珍の弟とするが、明史の列伝は、明二とは寵愛されて明姓を名乗らされた万勝のことだとする。1366年、病が重くなると戴寿らを呼び、力を合わせて嗣子を助ければ西蜀は自守できると言い残して死んだ。新元史の列伝は死を前年の夏とする。子の明昇が十歳で位を継ぎ、母の彭氏が皇太后としてともに政を聴いた。
在位中の出来事(2件)
改元1362年元号を「天統」とする
立后1362年即位と同時に妻・彭氏を皇后に立てた。
夏・元の歴代皇帝
2名の一覧- 第1代明玉珍1362–1366年病死
- 第2代明昇1366–1371年不詳