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宋(そう)・元(げん)第1代分裂期の王朝

韓林児(かんりんじ)

在位 1355年3月〜1367年1月(11年309日)

姓韓(かん)諱林児(りんじ)別称小明王(しょうめいおう)

韓林児の人物データ

生年
不詳
在位
  • 1355年3月〜1367年1月
在位 11年309日長さは365名中115位
没年
不詳
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
推戴帝号を新たに称した
先代
—
次代
—
目立つ記録
  • 遷都3回(42名中1位)

出典(死因・即位経路)

死因
明史 巻一百二十二(韓林児伝)/巻一百二十九(廖永忠伝)
即位経路
明史 巻一百二十二(韓林児伝)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

元末の紅巾の乱で劉(りゅう)福通(ふくつう)に担がれて宋(そう)の皇帝を称したが、実権は劉(りゅう)福通(ふくつう)にあり、最後は朱元璋(しゅげんしょう)のもとへ迎えられる途中で長江(ちょうこう)に沈んだと伝わる人物である。明史(みんし)の列伝(れつでん)は、大志がなく劉(りゅう)福通(ふくつう)の命を聞くだけで、虚名を擁したにすぎないと評する。

即位まで

父の韓(かん)山童(さんどう)は、天下が大いに乱れて弥勒仏(みろくぶつ)が下生すると説き、劉(りゅう)福通(ふくつう)らは山童を宋(そう)の徽宗(きそう)の八世の孫で中国(ちゅうごく)の主となるべき者だと唱えた。1351年に挙兵の謀が漏れて山童は捕らえられて誅(ちゅう)され、韓林児(かんりんじ)は母とともに武安(ぶあん)の山中へ逃れた。1355年、劉(りゅう)福通(ふくつう)は韓林児(かんりんじ)を碭山(とうざん)で探し出して亳(はく)に迎え、韓林児(かんりんじ)は皇帝を称して小明王(しょうめいおう)と号し、国を宋(そう)、元号を龍鳳(りゅうほう)とした。

治世と最期

即位後、劉(りゅう)福通(ふくつう)は寵用(ちょうよう)された丞相(じょうしょう)の杜(と)遵道(じゅんどう)を甲士(こうし)に撲殺させ、自ら丞相(じょうしょう)となって実権を握った。同じ年、韓林児(かんりんじ)は朱元璋(しゅげんしょう)を副元帥(ふくげんすい)に任じたが、明史(みんし)の太祖本紀(たいそほんぎ)によれば、朱元璋(しゅげんしょう)は人の制を受けないとして受けず、それでもその年号を軍中で用いた。1358年、劉(りゅう)福通(ふくつう)は汴梁(べんりょう)を落として韓林児(かんりんじ)をそこに移した。翌年、察罕帖木児(ちゃがんてむる)に汴梁(べんりょう)を囲まれると、劉(りゅう)福通(ふくつう)は韓林児(かんりんじ)を擁して安豊(あんぽう)へ逃げ、後宮や官属(かんぞく)、符璽(ふじ)はことごとく失われた。1363年、張士誠(しせい)の将の呂珍が安豊(あんぽう)を破って劉(りゅう)福通(ふくつう)を殺し、救援に来た朱元璋(しゅげんしょう)が韓林児(かんりんじ)を滁州(じょしゅう)へ連れ帰った。新元史(しんげんし)の韓林児(かんりんじ)伝は、朱元璋(しゅげんしょう)が韓林児(かんりんじ)を滁州(じょしゅう)の宮に移して柵で囲み、わずかな食糧を給したとする。明史(みんし)の太祖本紀(たいそほんぎ)は、1367年の初めに韓林児(かんりんじ)が卒したとだけ書き、朱元璋(しゅげんしょう)はこの年を呉元年とした。明史(みんし)の韓林児(かんりんじ)伝は、朱元璋(しゅげんしょう)の命で廖(りょう)永忠(えいちゅう)が応天(おうてん)へ迎える途中、瓜歩(かほ)で舟が覆って沈んだという説を付け加え、廖(りょう)永忠(えいちゅう)伝は朱元璋(しゅげんしょう)がこれを廖(りょう)永忠(えいちゅう)の咎(とが)としたと記す。新元史(しんげんし)は、朱元璋(しゅげんしょう)が迎える途中で殺した、あるいは廖(りょう)永忠(えいちゅう)が沈めて覆舟と報じたとする。このサイトが死因を暗殺としているのは、新元史(しんげんし)が殺害と明記し、明史(みんし)の廖(りょう)永忠(えいちゅう)伝も太祖(たいそ)が覆舟を廖(りょう)永忠(えいちゅう)の咎(とが)としたと記すことによる。

在位中の出来事(5件)

遷都1355年亳州 → 安豊
改元1355年3月元号を「龍鳳」とする
遷都1358年安豊 → 汴梁
遷都1359年汴梁 → 安豊
被反乱1361年李武・崔徳の離反

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