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呉(ご)・隋末(ずいまつ)第1代分裂期の王朝

李子通(りしつう)

在位 619年10月〜621年12月25日(2年86日)

姓李(り)諱子通(しつう)

李子通の人物データ

生年
不詳
在位
  • 619年10月〜621年12月25日
在位 2年86日長さは365名中252位
没年
不詳
死因
処刑非業の死・365名中34名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
—
次代
—
目立つ記録
  • 親征5回(109名中10位タイ)
  • 遷都1回(42名中9位タイ)

出典(死因・即位経路)

死因
旧唐書 巻五十六(李子通伝)/新唐書 列伝第十二
即位経路
旧唐書 巻五十六(李子通伝)/新唐書 列伝第十二

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

隋末(ずいまつ)の群雄で、江都(こうと)を落として呉の皇帝を称したが、杜伏威(とふくい)に敗れて唐に降り、のちに逃げようとして誅(ちゅう)された。

即位まで

旧唐書(くとうじょ)の列伝(れつでん)によれば、東海郡(とうかいぐん)丞県(じょうけん)の人で、若いころは貧しく漁や狩りで暮らした。隋(ずい)の大業(たいぎょう)末に長白山(ちょうはくさん)の賊帥(ぞくすい)の左才相(さいしょう)に身を寄せ、群盗が残忍ななかでひとり寛大にふるまったので人が集まった。左才相(さいしょう)に忌まれて杜伏威(とふくい)と合流したが、隋(ずい)の来整に敗れ、海陵(かいりょう)へ走って将軍を自称した。隋書(ずいしょ)の煬帝(ようだい)紀(き)は、615年に楚王(そおう)を称して明政(めいせい)と建元(けんげん)したと記す。新唐書(しんとうじょ)の列伝(れつでん)は、明政(めいせい)の建元(けんげん)を江都(こうと)での即位のときに置く。毛文深(ぶんしん)の策で兵を沈法興(しんほうこう)の兵に見せかけて杜伏威(とふくい)を襲わせ、両者が疑い合って動けないあいだに江都(こうと)を攻め落とした。619年、江都(こうと)で皇帝を称し、国号を呉、元号を明政(めいせい)とした。

治世と最期

翌年、長江(ちょうこう)を渡って沈法興(しんほうこう)の将を破り、晋陵(しんりょう)の地を得た。杜伏威(とふくい)が輔公祏(ほこうせき)に丹陽(たんよう)を落とさせると、迎え撃って敗れ、江都(こうと)を捨てて京口(けいこう)を守った。太湖(たいこ)へ走って兵を集め直し、沈法興(しんほうこう)を破って余杭(よこう)に都を置いた。杜伏威(とふくい)の将の王雄誕(おうゆうたん)に敗れ、621年に降伏を請うた。李子通(りしつう)伝と資治通鑑(しじつがん)は降伏とするが、旧唐書(くとうじょ)の王雄誕(おうゆうたん)伝と杜伏威(とふくい)伝は戦陣で捕らえたとする。唐の高祖(こうそ)は罪を問わず、邸宅と公田を与えて厚く遇した。杜伏威(とふくい)が入朝すると、李子通(りしつう)は江外(こうがい)の旧部下を集めれば大功を立てられると楽伯通(はくつう)に語って二人で逃げたが、藍田関(らんでんかん)で捕らえられて誅(ちゅう)された。資治通鑑(しじつがん)はこれを622年とし、新唐書(しんとうじょ)の高祖(こうそ)紀(き)は降伏の数日後に謀反して誅(ちゅう)されたとする。

在位中の出来事(7件)

親征619年〜620年沈法興
親征619年1月〜619年9月陳棱(宇文化及配下の江都太守)
改元619年10月元号を「明政」とする
親征620年杜伏威(配下の輔公祏)
親征620年沈法興
遷都620年江都 → 余杭
親征621年1月〜621年12月杜伏威(配下の王雄誕)

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