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魏(ぎ)(三国(さんごく))第4代分裂期の王朝

曹髦(そうぼう)

在位 254年11月2日〜260年6月2日(5年214日)

姓曹(そう)諱髦(ぼう)字彦士(げんし)

曹髦の人物データ

生年
不詳
在位
  • 254年11月2日〜260年6月2日
在位 5年214日14歳で即位(数え年)・長さは365名中175位
没年
260年6月2日20歳(数え年)267名中長寿順235位タイ
死因
暗殺非業の死・365名中94名
即位経路
擁立
先代
  • 曹芳魏曹髦は曹芳の従兄弟
次代

出典(死因・即位経路)

死因
三國志 魏書四 三少帝紀 裴松之注引漢晋春秋
即位経路
三國志 魏書四 三少帝紀

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

曹髦(そうぼう)は三国(さんごく)魏(ぎ)の文帝(ぶんてい)の孫で、皇帝の曹芳(そうほう)が廃されたのち、迎え立てられた。実権を握る司馬昭(しばしょう)を自ら兵を率いて討とうとし、その場で殺された。

即位まで

東海定王(とうかいていおう)曹霖(そうりん)の子で、244年に高貴郷公(こうききょうこう)に封じられた。裴注(はいちゅう)所引の魏略(ぎりゃく)によれば、司馬師(しばし)ははじめ彭城(ほうじょう)王曹拠を立てようとしたが、郭太后(たいこう)は彭城(ほうじょう)王が自分の叔父にあたるとして反対し、明帝(めいてい)の弟の子である曹髦(そうぼう)を立てるよう議させた。郭太后(たいこう)の令で曹髦(そうぼう)は明帝(めいてい)の後嗣と定められた。洛陽(らくよう)に入るときは自分はまだ臣下だとして群臣に答拝(とうはい)し、止車門(ししゃもん)で輿を降りて歩いて太后に謁見し、その日のうちに太極前殿で即位した。

治世と最期

即位の翌年、毌丘倹(かんきゅうけん)と文欽(ぶんきん)が反して司馬師(しばし)が討ち、同じ年に司馬師(しばし)が没すると司馬昭(しばしょう)が大将軍(だいしょうぐん)となった。256年には太学(たいがく)に行幸(ぎょうこう)し、易博士(えきはかせ)の淳于俊(じゅんうしゅん)に易の成り立ちを問い詰めて答えられなくさせている。257年に諸葛誕(しょかつたん)が寿春(じゅしゅん)で反し、翌年司馬昭(しばしょう)がこれを平らげると、司馬昭(しばしょう)を相国(しょうこく)・晋公(しんこう)とする命が出たが、司馬昭(しばしょう)は九たび辞退してやめさせた。漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)によれば、260年に曹髦(そうぼう)は王沈(おうしん)・王経(おうけい)・王業(おうぎょう)を召し、司馬昭(しばしょう)の野心は道行く人まで知っていると言って、自ら討つと告げた。王沈(おうしん)と王業(おうぎょう)は司馬昭(しばしょう)に急報し、出撃した曹髦(そうぼう)を太子舎人(たいししゃじん)の成済(せいせい)が刺して、刃は背に抜けた。魏末伝(ぎまつでん)は賈充(かじゅう)が成済(せいせい)に命じ、成済(せいせい)とその兄の成倅(さい)が刺したとし、晋書(しんじょ)の文帝(ぶんてい)紀(き)は曹髦(そうぼう)が車中で崩じたと記す。三国(さんごく)志の本紀(ほんぎ)は、高貴郷公(こうききょうこう)が卒したとだけ書き、司馬昭(しばしょう)の野心を語った言葉は本文には無い。郭太后(たいこう)の令は曹髦(そうぼう)が太后の毒殺と挙兵を企てて前鋒(ぜんぽう)に害されたとして庶人(しょじん)の礼で葬るよう求めたが、司馬孚(しばふ)・司馬昭(しばしょう)らが王の礼を請い、太后はこれに従った。司馬昭(しばしょう)は上言(じょうげん)で罪を成済(せいせい)に帰し、成済(せいせい)を軍法で処したとしてその家族を廷尉(ていい)に下した。

在位中の出来事(9件)

改元254年11月2日元号を「正元」とする
大赦254年11月2日即位当日、改元とともに大赦。
大赦255年正元二年三月、皇后卞氏冊立に伴う大赦。
立后255年正元二年三月、卞皇后を冊立。
被反乱255年毌丘倹・文欽の反乱
改元256年元号を「甘露」とする
大赦257年甘露二年九月、諸葛誕討伐(寿春攻囲継続中)の情勢下での大赦。
被反乱257年〜258年諸葛誕の反乱
被反乱257年玄菟郡高顕県吏民の反乱

魏の歴代皇帝

5名の一覧

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