魏(三国)第4代分裂期の王朝
曹髦
在位 254年11月2日〜260年6月2日(5年214日)
曹髦の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 三國志 魏書四 三少帝紀 裴松之注引漢晋春秋
- 即位経路
- 三國志 魏書四 三少帝紀
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
曹髦は三国魏の文帝の孫で、皇帝の曹芳が廃されたのち、迎え立てられた。実権を握る司馬昭を自ら兵を率いて討とうとし、その場で殺された。
即位まで
東海定王曹霖の子で、244年に高貴郷公に封じられた。裴注所引の魏略によれば、司馬師ははじめ彭城王曹拠を立てようとしたが、郭太后は彭城王が自分の叔父にあたるとして反対し、明帝の弟の子である曹髦を立てるよう議させた。郭太后の令で曹髦は明帝の後嗣と定められた。洛陽に入るときは自分はまだ臣下だとして群臣に答拝し、止車門で輿を降りて歩いて太后に謁見し、その日のうちに太極前殿で即位した。
治世と最期
即位の翌年、毌丘倹と文欽が反して司馬師が討ち、同じ年に司馬師が没すると司馬昭が大将軍となった。256年には太学に行幸し、易博士の淳于俊に易の成り立ちを問い詰めて答えられなくさせている。257年に諸葛誕が寿春で反し、翌年司馬昭がこれを平らげると、司馬昭を相国・晋公とする命が出たが、司馬昭は九たび辞退してやめさせた。漢晋春秋によれば、260年に曹髦は王沈・王経・王業を召し、司馬昭の野心は道行く人まで知っていると言って、自ら討つと告げた。王沈と王業は司馬昭に急報し、出撃した曹髦を太子舎人の成済が刺して、刃は背に抜けた。魏末伝は賈充が成済に命じ、成済とその兄の成倅が刺したとし、晋書の文帝紀は曹髦が車中で崩じたと記す。三国志の本紀は、高貴郷公が卒したとだけ書き、司馬昭の野心を語った言葉は本文には無い。郭太后の令は曹髦が太后の毒殺と挙兵を企てて前鋒に害されたとして庶人の礼で葬るよう求めたが、司馬孚・司馬昭らが王の礼を請い、太后はこれに従った。司馬昭は上言で罪を成済に帰し、成済を軍法で処したとしてその家族を廷尉に下した。
在位中の出来事(9件)
魏の歴代皇帝
5名の一覧- 第1代文帝220–226年病死
- 第2代明帝226–239年病死
- 第3代曹芳239–254年不詳
- 第4代曹髦254–260年暗殺
- 第5代元帝260–266年不詳