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後蜀(こうしょく)(五代十国(ごだいじっこく))第1代分裂期の王朝

高祖(こうそ)孟知祥(もうちしょう)

在位 934年3月16日〜934年9月7日(175日)

姓孟(もう)諱知祥(ちしょう)字保胤(ほいん)

高祖の人物データ

生年
874年5月10日
在位
  • 934年3月16日〜934年9月7日
在位 175日61歳で即位(数え年)・長さは365名中323位
没年
934年9月7日61歳(数え年)267名中長寿順33位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
自立帝号を新たに称した
先代
—
次代
  • 後主後蜀後主は高祖の子

出典(死因・即位経路)

死因
新五代史 巻六十四(後蜀世家第四)
即位経路
新五代史 巻六十四(後蜀世家第四)

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

孟知祥(もうちしょう)は邢州(けいしゅう)龍岡(りゅうこう)の人で、後唐(こうとう)の西川(せいせん)節度使(せつどし)から蜀(しょく)に拠り、934年に帝位に即いて後蜀(こうしょく)を建てた。即位の数か月後に病没し、子の昶(ちょう)が跡を継いだ。

即位まで

新五代史(しんごだいし)は、知祥(ちしょう)は字を保胤(ほいん)といい、晋王(しんおう)李克用(りこくよう)が弟の克譲(こくじょう)の娘を知祥(ちしょう)の妻にしたと記す。後唐(こうとう)の荘宗(そうそう)が蜀(しょく)を平らげる前に、郭崇韜(すうとう)が、西川(せいせん)を守る将は孟知祥(もうちしょう)に及ぶ者はいないと述べ、蜀(しょく)が破れると荘宗(そうそう)は知祥(ちしょう)を成都尹(せいといん)・剣南西川(けんなんせいせん)節度副大使(せつどふくたいし)にした。荘宗(そうそう)が崩じて明宗(めいそう)が立つと、知祥(ちしょう)は兵を訓練し、ひそかに蜀(しょく)に王たる志を持った。930年、董(とう)璋(しょう)が先に反し、知祥(ちしょう)も同じ年に兵を挙げて反した。933年、明宗(めいそう)は知祥(ちしょう)を東西両川(とうざいりょうせん)節度(せつど)とし、蜀王(しょくおう)に冊封(さくほう)した。明宗(めいそう)が崩じた翌年、新五代史(しんごだいし)は、知祥(ちしょう)が帝位に即き、国号を蜀(しょく)としたと記す。十国春秋(じっこくしゅんじゅう)は、趙(ちょう)季良(きりょう)の勧進に知祥(ちしょう)は、徳が薄い、蜀王(しょくおう)として老いれば足りると辞し、季良(きりょう)が重ねて勧めて即位したと記す。

治世と最期

資治通鑑(しじつがん)は、知祥(ちしょう)が成都(せいと)で皇帝位(こうていい)に即いたと記す。旧五代史(きゅうごだいし)は、鳳翔(ほうしょう)から届いた知祥(ちしょう)の書が記す即位の時期が、新五代史(しんごだいし)・資治通鑑(しじつがん)とは異なると記す。新五代史(しんごだいし)は、潞王(ろおう)が鳳翔(ほうしょう)で挙兵すると、張虔釗(けんしょう)と孫漢韶(かんしょう)がその地を蜀(しょく)に付け、知祥(ちしょう)は明徳(めいとく)と改元(かいげん)したと記す。発病の時期は書により異なり、新五代史(しんごだいし)は、張虔釗(けんしょう)らを迎えた宴で手がゆるんで杯を挙げられなくなったとし、資治通鑑(しじつがん)は風疾を一年余り患ったとする。資治通鑑(しじつがん)は、知祥(ちしょう)は風疾を患って一年余り、重くなると子の仁賛(じんさん)(のちの昶(ちょう))を太子として監国(かんこく)とし、その夕に没したが喪を秘したと記す。仁賛(じんさん)は昶(ちょう)と改名して即位した。没した時期の書き方は書により異なり、新五代史(しんごだいし)は卒の月日を記さない。十国春秋(じっこくしゅんじゅう)は、知祥(ちしょう)を、李(り)厳を斬り董(とう)璋(しょう)を除いて東川(とうせん)を平らげ山南を併せた人物と評する。

在位中の出来事(2件)

改元934年5月27日元号を「明徳」とする
大赦934年5月27日明徳元年四月辛巳(庚午朔から十二日目)、玉冊玉宝を受け得賢門に御し、明徳への改元と同日に大赦を実施。

後蜀の歴代皇帝

2名の一覧

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