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後梁(こうりょう)・南北朝(なんほくちょう)第1代分裂期の王朝

宣帝(せんてい)蕭詧(しょうさつ)

在位 555年2月〜562年3月(7年30日)

姓蕭(しょう)諱詧(さつ)字理孫(りそん)廟号中宗(ちゅうそう)

宣帝の人物データ

生年
不詳
在位
  • 555年2月〜562年3月
在位 7年30日長さは365名中157位
没年
562年3月44歳(数え年)267名中長寿順110位タイ
死因
病死365名中167名
即位経路
推戴帝号を新たに称した
先代
—
次代
  • 明帝後梁・南北朝明帝は宣帝の子

出典(死因・即位経路)

死因
周書 巻48 列傳第40 蕭詧
即位経路
周書 巻48 列傳第40 蕭詧

死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。

生涯

どんな皇帝か

梁(りょう)の昭明太子(しょうめいたいし)の子で、叔父の元帝(げんてい)と争って西魏(せいぎ)に付き、江陵(こうりょう)が落ちたのち西魏(せいぎ)に梁(りょう)の主として立てられた後梁(こうりょう)の皇帝である。

即位まで

梁(りょう)の武帝(ぶてい)の孫で、昭明太子(しょうめいたいし)の第三子である。昭明太子(しょうめいたいし)が亡くなると、武帝(ぶてい)は蕭詧(しょうさつ)の兄弟を措いて簡文帝(かんぶんてい)を立て、蕭詧(しょうさつ)は不平を抱いて財を蓄え軽侠(けいきょう)を招いた。叔父の元帝(げんてい)が兄の河東王(かとうおう)蕭(しょう)誉を攻めたので蕭詧(しょうさつ)は江陵(こうりょう)を攻めたが、大雨で将が江陵(こうりょう)へ降り、夜に襄陽(じょうよう)へ逃げ帰った。549年、江陵(こうりょう)と仇(かたき)になって自立できないと恐れ、西魏(せいぎ)に附庸となることを請うた。550年、周書(しゅうしょ)によれば宇文泰(うぶんたい)が蕭詧(しょうさつ)を梁王(りょうおう)に策命(さくめい)したが、南史(なんし)の元帝(げんてい)紀(き)は自ら梁王(りょうおう)を称したと書く。554年、宇文泰(うぶんたい)が于謹(うきん)に江陵(こうりょう)を伐たせると兵を合わせ、555年の初めに江陵(こうりょう)が落ちると梁(りょう)の主に立てられたが、与えられたのは江陵(こうりょう)一州だけだった。資治通鑑(しじつがん)は元帝(げんてい)が魏(ぎ)の人に殺され、蕭詧(しょうさつ)の遣わした傅(ふ)准がその刑を監(かん)したとし、南史(なんし)も傅(ふ)准が刑を監(かん)したと記すが、周書(しゅうしょ)はこれを書かない。

治世と最期

国内では皇帝を称して大定(たいてい)と改元(かいげん)したが、西魏(せいぎ)への上疏(じょうそ)では臣と称し、西魏(せいぎ)の正朔(せいさく)を奉じた。資治通鑑(しじつがん)は即位と改元(かいげん)を555年の条に置く。宇文泰(うぶんたい)は江陵(こうりょう)の西城(せいじょう)に兵を置き、表向きは守りを助けるとしながら、実は蕭詧(しょうさつ)を見張らせた。将の尹(いん)徳毅(とくき)が宴で于謹(うきん)らを討って江陵(こうりょう)を取るよう勧めたが、蕭詧(しょうさつ)は魏(ぎ)の厚遇に背けないとして従わなかった。その後、江陵(こうりょう)の老若が捕虜として関中(かんちゅう)へ連れ去られ、襄陽(じょうよう)も失うと、蕭詧(しょうさつ)はその言を用いなかったことを悔いた。元帝(げんてい)の旧将の王琳(おうりん)が攻めて来たのを防ぎ、558年には王操に王琳(おうりん)の郡を取らせた。領土が狭いことを常に憂え、562年に背に腫物を発して没した。

在位中の出来事(2件)

改元555年2月元号を「大定」とする
立后555年2月

後梁・南北朝の歴代皇帝

3名の一覧

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