後梁・南北朝第1代分裂期の王朝
宣帝蕭詧
在位 555年2月〜562年3月(7年30日)
姓蕭諱詧字理孫廟号中宗
宣帝の人物データ
出典(死因・即位経路)
- 死因
- 周書 巻48 列傳第40 蕭詧
- 即位経路
- 周書 巻48 列傳第40 蕭詧
死因と即位経路を判定するときに読んだ正史の書名と巻です。
生涯
どんな皇帝か
梁の昭明太子の子で、叔父の元帝と争って西魏に付き、江陵が落ちたのち西魏に梁の主として立てられた後梁の皇帝である。
即位まで
梁の武帝の孫で、昭明太子の第三子である。昭明太子が亡くなると、武帝は蕭詧の兄弟を措いて簡文帝を立て、蕭詧は不平を抱いて財を蓄え軽侠を招いた。叔父の元帝が兄の河東王蕭誉を攻めたので蕭詧は江陵を攻めたが、大雨で将が江陵へ降り、夜に襄陽へ逃げ帰った。549年、江陵と仇になって自立できないと恐れ、西魏に附庸となることを請うた。550年、周書によれば宇文泰が蕭詧を梁王に策命したが、南史の元帝紀は自ら梁王を称したと書く。554年、宇文泰が于謹に江陵を伐たせると兵を合わせ、555年の初めに江陵が落ちると梁の主に立てられたが、与えられたのは江陵一州だけだった。資治通鑑は元帝が魏の人に殺され、蕭詧の遣わした傅准がその刑を監したとし、南史も傅准が刑を監したと記すが、周書はこれを書かない。
治世と最期
国内では皇帝を称して大定と改元したが、西魏への上疏では臣と称し、西魏の正朔を奉じた。資治通鑑は即位と改元を555年の条に置く。宇文泰は江陵の西城に兵を置き、表向きは守りを助けるとしながら、実は蕭詧を見張らせた。将の尹徳毅が宴で于謹らを討って江陵を取るよう勧めたが、蕭詧は魏の厚遇に背けないとして従わなかった。その後、江陵の老若が捕虜として関中へ連れ去られ、襄陽も失うと、蕭詧はその言を用いなかったことを悔いた。元帝の旧将の王琳が攻めて来たのを防ぎ、558年には王操に王琳の郡を取らせた。領土が狭いことを常に憂え、562年に背に腫物を発して没した。
在位中の出来事(2件)
改元555年2月元号を「大定」とする
立后555年2月
後梁・南北朝の歴代皇帝
3名の一覧- 第1代宣帝555–562年病死
- 第2代明帝562–585年病死
- 第3代後主585–587年病死