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暗殺された中国の皇帝(94人)

365人のうち暗殺されたのは94人(25.8%)です。時代の順に全員を並べています。

死因は正史の本紀・列伝の記述から1人ずつ分類しています。暗殺・処刑・戦死・自尽の4つを合わせて「非業の死」と呼んでいます。

暗殺された中国の皇帝(94人)
皇帝没年齢
石閔(冉閔)・李農を排除しようと配下に暗殺を試みさせたが失敗し軟禁される。軟禁中に外部と密書をやり取りし鄴奪還を企てたが露見し、冉閔・李農により廃位の上、殺害された(在位103日)。石虎の孫28人も皆殺しにされた。
建康陥落後の敗走中、自ら信任し庫真都督に取り立てた側近・羊鵾(羊侃の子)の裏切りにより殺害された。昼寝中に船を京口方面へ誘導され、目覚めて水中へ逃れようとしたところを斬りつけられ、船室に逃げ込んだところを槊で刺殺された。同一政権(漢)内部者による謀殺のため暗殺。
唐軍(柴紹)の攻勢で劣勢の中、従父弟の梁洛仁が師都を斬殺し、その首を持って柴紹に降伏。同一政権内部の血縁者による謀殺。洛仁は殺害の功により唐から右驍衛将軍・朔方郡公に任ぜられた。
宇文化及配下で傀儡皇帝の地位にあったが、化及が李密に敗れ魏県へ敗走した後、自ら皇帝を僭称するにあたり鴆殺された。同一勢力内部者(丞相格の化及)による毒殺。
厳荘・安慶緒が武装して帳外を守る中、宦官李猪児が帳内で腹を斬った。実行者は側近の宦官、共謀者は腹心の厳荘と実子・安慶緒であり、同一政権内部者による謀殺。
上元2年、永寧の陣中で嫡子・史朝義配下の駱悦らが謀反。矢で腕を射て落馬させ捕縛、柳泉駅に連行の上、縊殺した。同一燕政権内の将校・実子の陣営による暗殺。
長安収復後、涇州入城を拒まれ寧州彭原県への逃走中、腹心だった硃惟孝が梁庭芬とともに泚を射た。逃げて古い窖に転落したところを部将(韓旻・薛綸ら)が共同で斬殺。同一政権内部者(元の腹心・部将)による殺害のため暗殺。
牛肉を食べて発病した際、腹心の部将陳仙奇が医師に命じて毒を盛らせ死に至らしめた。陳仙奇はその後唐に投降し淮西節度使に任命されており、投降を前提とした計画的暗殺。
天祐元年8月11日夜、朱全忠の命により朱友恭・氏叔琮・蒋玄暉が椒殿にて弑逆。この時点で唐朝は形式上存続しており、配下の武将・宦官による謀殺のため暗殺に該当。享年38。
実子・郢王友珪が父の左遷を機に反乱を決意。統軍韓勍と結び兵五百を率いて禁中に侵入、寝殿で対面したうえ配下の馮廷諤に命じて刺殺させた。
連重遇・朱文進の起こしたクーデターで南宮を焼かれ脱出、逃亡先の梧桐嶺で新帝延羲配下の王継業に捕らえられ、陁荘で酒を飲まされ泥酔させられた上で絞殺(縊殺)された。
連重遇・朱文進が皇后の陰謀に呼応し、外出から泥酔して帰る途中の延羲を拱宸馬歩使・銭達に命じて馬上から引きずり下ろして弑殺させた。
実行犯(力士・陳道庠ら)を差し向けたのは弟の晋王熙(後の中宗劉晟)であり、同じ劉氏南漢政権内部の身内による謀殺。宴席で泥酔させ絞め殺した。
従兄弟にあたる泰寧王察割による謀反で暗殺。祭祀後の酒宴で群臣が酩酊した隙をつかれた。生母(皇太后)と皇后も同時に殺害された。同一政権内部(皇族)によるクーデター的暗殺。
郭威討伐軍からの逃亡中、随行していた側近(飛龍使)郭允明が刺殺。皇帝自身の腹心による弑殺のため暗殺。通鑑攷異には郭威軍による殺害を郭允明の自殺後に押し付けた可能性を示す異説もある。
懐州での狩猟後の酒宴で泥酔し戻った夜、近侍・浴室係・料理人ら6名によって寝所で暗殺された。在位中、酩酊状態で理由なく近侍・猟師・料理人らを次々に殺害する記事が頻出しており、常習的な虐待に対する側近による自衛的な弑逆と解される。
太子・寧令哥が父帝に愛妻を奪われたことを恨み、酒に酔った元昊を刺したが殺しきれず鼻を切り落として逃走。元昊は鼻の傷がもとで翌日死去。続資治通鑑長編に詳述される。